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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
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左手にあったのが「鶴岡八幡宮」の「西鳥居」。 「西鳥居」の先が「流鏑馬馬場(やぶさめばば)」であり、鶴岡八幡宮の境内中央付近を 東西に走るこの「流鏑馬馬場」は、旧鎌倉道といわれ、鎌倉道の起点だったとも考えられて いるのだ。後に鎌倉道は、鎌倉街道と呼ばれるようになり、その主要路は「上の道」、 「中の道」、「下の道」と呼ばれる三道である。 ![]() 更に進むと右手鶯谷山(愛宕山とも呼ばれる。)の中腹にある「志一稲荷」が見えた。 ![]() 長い石段の先にある「志一稲荷」。 ![]() 志一とは京都仁和寺の上人の名。 この辺りは、鶯ヶ谷と呼ばれる谷戸で、三代将軍源実朝が鶯の初音を聞いたという故事から そう呼ばれるようになった。 志一稲荷には次のような伝説が残されている。 訴訟で鎌倉に来た志一上人。 しかし、筑紫に大切な文書を忘れてしまった。 そこで、可愛がっていた狐を使わすと、狐は一夜のうちに持って帰ってきてくれたのだという。 しかし、長い道のりを走り続けた狐は志一上人に文書を渡すと死んでしまった。 志一稲荷は、その狐を祀った志一上人が立てた祠なのだと伝えられている。 それを聞いた畠山入道が「深く感じ入り信仰した」ということや、狐の奇特に感じ入った 関東一円の人々が信仰したということが『太平記』に描かれているのだと。 祭神:倉稲魂神(うかのみたまのみこと) ![]() 左手には「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」があった。 ![]() 「特別展鎌倉の伝統工芸 鶴岡八幡宮鎌倉彫名品展 令和3年3月19日(金)~5月16日(日)」のポスター。 ![]() 「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」銘板。 ![]() ル・コルビュジエに師事した建築家・坂倉準三が設計し、2016年3月に惜しまれながら 閉館した「旧神奈川県立近代美術館 鎌倉」。 この建物を再利用した文化施設「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」が2019年6月に開館 したのだ。 ![]() 館内の様子が写真展示されていた。 ![]() 左カーブの場所・小町通商店街の北端東側の角にあったのが鎌倉十井である 「鉄井(くろがねのい)」。 ![]() 「鎌倉十井(じゅっせい)の一(いつ)なり 水質清冽(せいれつ;清冷)甘美(かんみ:まろやか)にして 盛夏といえども涸(か)れることなし 往昔(昔)此(この)井(の)中より高さ五尺余りの首許(ばかり) なる鉄観音を掘出したるにより鉄井(くろがねのい)と名付くといふ 正嘉(せいか)二年(1258)正月十二日丑の剋(午前2時頃)秋田城介康盛(あきたじょうのすけ・ やすもり)が甘縄(あまなわ)の宅より失火し 折柄(おりから)の南風に煽(あお)られ火は 薬師堂の後山を越え寿福寺に到り 郭内(かくない:寺領内)一宇(一堂)も残さず焼失せしめ 余焔は更に新清水寺 窟堂(いわどう)若宮宝蔵 同別当坊等を焼亡せしめたること東(吾妻)鑑に 見えたり 此の観音はその火炎にかかり土中に埋もれしを掘出したるものならん 尊像は新清水寺の観音と伝へ 後此井の西方なる観音堂に安置せられしも 明治初年東京に 移せりといふ」 【鎌倉十井(じゅっせい)のひとつです。水は清んで甘みがあり、夏でも枯れることはありません。 昔この井戸から高さ1.5メートルの鉄の観音像の首の部分が掘出されたために鉄井(くろがねのい) と名付けられたといいます。1258年1月12日の午前2時ごろ、 秋田康盛(あきたやすもり)の 甘縄(あまなわ)の自宅より火を出し、おりからの南風にあおられて、火は薬師堂の後ろの山を 越えて寿福寺(じゅふくじ)にまでおよんで、寺の建物は、一堂も残らず全て焼けてしまいました。 火はさらに新清水寺(しんせいすいじ)、 岩堂(いわやどう)、若宮の宝物殿、宿坊(しゅくぼう)まで 及び、焼き尽くしたことが、吾妻鑑(あづまかがみ)に書かれています。 この観音像はその火事の時に、土の中に埋まったものを掘り出したものと思われます。 観音は新清水寺のものと伝えられるため、 後にこの井戸の西にある観音堂に安置されましたが、 明治の初めに東京に移されたということです。】 東京都中央区日本橋人形町の大観音寺の本尊がこれであると。 ![]() 道路の反対側にあったのが「紅葉稲荷社」。 鎌倉・鶴岡八幡宮境内四隅に鎮座する鎮守稲荷・四社の一つ。 ![]() 江ノ電バス「鎌倉八幡宮前」バス停を通過。 ![]() その先に「八幡宮前交差点」横に立つ「三の鳥居」が姿を現した。 ![]() 「鶴岡八幡宮 境内案内図」。 ![]() 「三の鳥居」越しに「段葛」を見る。 ![]() 「三の鳥居」前から「太鼓橋」方向を見る。 ![]() 「太鼓橋」とその奥に「本宮(上宮)」が。 鶴岡八幡宮の太鼓橋は、1182年(寿永元年)に源平池が造営されたときに架けられた ものと考えられている。 将軍家が鶴岡八幡宮を参拝するときは、この橋で輿を下乗したのだという。 当時は朱塗りの板橋であったことから、「赤橋」(あかはし・あかばし)と呼ばれていた。 鎌倉の古絵図にも「赤橋」と記されている。 北条氏の庶流「赤橋流」の苗字は、この太鼓橋(赤橋)の近くに屋敷があったことに 由来している と。 ![]() 「太鼓橋」を横から。 現在の「太鼓橋」は、昭和2年に、鉄筋コンクリートと石で造られた橋。 『新編鎌倉志』には、長さ五間幅三間だったと記されている と。 ![]() 左手には「石灯籠」と「鶴岡八幡宮 案内板」。 ![]() 「鶴岡八幡宮 御祭神 応神夭皇 比売神 神功皇后 当宮は源頼義公が前九年の役平定後、康平六年(一〇六三)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡神を 勧請したのに始まる。 治承四年(一一八〇)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由練の地鎌倉に人ると、まず由比郷の 八幡宮を遥拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉遷し、京に於ける内裏に相当する 位置に据えて諸整備に努めた。 建久ニ年(一一九一)大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝公は直ちに再建に着手し大臣山の 中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた。 以来当宮は武家の守護神として北条・足利・後北条・徳川各氏も社領等の寄進、社殿の修造を行い 篤く尊崇した。 主な年中行事 ▼歳旦祭 一月一日 ▼大祓 六月・十ニ月晦日 古神札焼納祭 半年間の罪穢を祓清め、また古い神札やお守りを藐納する ▼例大祭▼ぼんぼり祭 ▼流鏑馬神事 ▼御鎮座祈年祭」 ![]() 左手にあった「茶寮 風の杜」。 ![]() 「鎌倉国宝館 案内板 鎌倉に伝わる国宝・重要文化財の絵画・彫刻など、代表的な美術工芸品・歴史資料を 一堂に収蔵・展示する市立の歴史・美術博物館です。」 ![]() 店の入口にあった「源平池」碑。 「寿永元年(1182)四月 源の頼朝の命により 専光坊並に大庭平太景義等奉公して境内に池を 掘りしこと 東(吾妻)鑑に見ゆ 一説に 夫人政子 源家の興隆を祈請して此の池を造作せしめ 東池に白蓮 西池に紅蓮を植え 源平の旗色を表はしたりと伝へられ源平池の名あり」 【吾妻鑑(あずまかがみ)によると「1182年4月に、源頼朝(よりとも)が、専光坊(せんこうぼう)や 大庭景義(おおばかげよし)らに八幡宮内に池を掘らせた」と書いてあります。 またある説には、頼朝の妻の政子が源家が栄えることを願ってこの池を造らさせ、 東の池には白い蓮(はす)、西の池には赤い蓮を植えさせて、源平の旗の色を表わしたと 伝えられており、それで源平池という名前が付いているということです。】 治承4年(1180年)8月 源頼朝公は伊豆君国に源家再興の旗を上げ、石橋山の戦いに敗れて 房総に転じ、10月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家討伐の本拠とした。 夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(1182年)大庭景義に命じ境内の東西に池を 掘らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し、三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を 造り四は死なりと平家滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。 ![]() 左手の「平家池」。 「平家池」には四島を造り「四は死なり」と平家滅亡を祈ったのだと。 ![]() 「太鼓橋」の両側にも橋が架けられているが、当初はこの左側の橋のみだったと。 「太鼓橋」の左側の池を「平家池」と呼ぶが、この橋は「平家を踏みつぶす」という 意味があったのだと。 ![]() 豊かな自然に囲まれた境内、広々とした参道。 ここ「鶴岡八幡宮」は子供の頃から既に数え切れない程の回数で訪ねていたが この様に人出の少ないことは記憶になかったのであった。 この日も、「鶴岡八幡宮」はパスする予定であったが、急遽ゆっくり静かに見学できる チャンスと考え予定を変更したのであった。 ![]() 「池泉回遊式庭園 開園中」。 神苑ぼたん庭園の牡丹が開花しているのであろうがこの日はパスした。 ![]() 次に源氏池の中にある「旗上弁財天社」を訪ねた。 ![]() 「旗上辨財天御由緒 治承4年(1180年)8月、源頼朝公は伊豆国に源家再興の旗を上げ、石橋山の戦いに 破れて房総に転じ、10月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家討伐の 本拠地とした。 夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(1182年)大庭景義に命じ境内の東西に 池を掘らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し三は産なりと祝い、西の池(平家池)には 四島を造り四は死なりと平家滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。 そして東の池の中の島に弁財天社を祀ったのが当社の始めで、明治初年の神仏分離の際境内に あった他の堂塔と共に除かれた。 その後昭和31年篤信家の立願によって再興され、さらには昭和55年9月鶴岡八幡宮創建 八百年を記念して、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元されたのである。 因みに弁財天信仰は鎌倉時代既に盛んで、妙音芸能の女神、福徳利財の霊神として世に広く 仰がれている。当社に祀られていた弁財天像(重文)は鎌倉彫刻の代表傑作で、種々の御神徳が 如実に具現された人間味溢れた御神像である。・・・以下略」 ![]() 朱の鳥居。 ![]() 藤棚の花も終わって。 ![]() 以前訪ねた折の白の藤棚。もちろん源氏は「白」なのであった。 ![]() 正面に、源氏池に浮かぶ中の島にある「旗上辨財天」の社殿。 ![]() 「社殿」を横から見る。 ![]() 以前戴いた「鎌倉江の島七福神 旗上辨財天 弁財天」の「御朱印」です。 ![]() 「社殿」の裏にあった「政子石」。 「政子石」とも「姫石」とも呼ばれる陰陽石。 ![]() 古図によると、かつては鶴岡八幡宮社殿に置かれていたもので、北条政子が懐妊したときに 源頼朝が安産祈願をした石なのだとか。 夫婦円満と子宝の祈願石として信仰され、近年では恋愛成就の御利益があるとして 女性に人気のパワースポット。 ![]() 「源氏池」の「中の島」にはためく白の「旗上辨財天」の幟。 幟の上部には寺紋の「丸に二つ引き」の「二つ引き」が。 ![]() 「中の島」から「源氏池」を見る。 「源氏池」には三島を配し、三は産なりと祝ったのだと。 もちろん「平家池」より大きい「源氏池」。右手奥に「齋館」が見えた。 ![]() 「奉納 参道敷石」には四名の名が。 ![]() 源氏池にかかる弓状の橋長約10mの赤い橋・宮橋。 ![]() 参道の対の巨大な石灯籠を見る。 1862年(文久2年)、江戸と大坂の砂糖問屋が砂糖船の航海の安全を 祈願して奉納したもの。 左側が大坂で右側が江戸のもので、それぞれ「砂糖店」と刻まれているのであった。 ![]() 「鶴岡幼稚園」入口。鶴岡八幡宮の経営で昭和25年4月に開園。 鎌倉市雪ノ下2-1-31。 ![]() 園舎からは子供たちの声が聞こえて来た。 ![]() 再び「太鼓橋」と「三の鳥居」を振り返る。 ![]() 「参道」の左手の巨大な観光案内図。 ![]() 「鎌倉市観光案内図」。 ![]() 「参道」をほぼ独り占めの初体験に驚きを。 ![]() 左手に先程反対側から見た「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」。 ![]() 「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」銘板。 ![]() 「東鳥居」への参道。 「鶴岡幼稚園」の送迎用マイクロバスが園の前に停まっていた。 ![]() 「西鳥居」への参道。 ![]() 左手に巨石が。 ![]() 「よじべえ石」。 鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の西の鳥居付近に置かれている石は、由比ヶ浜海岸と材木座海岸の沖に あったもの。 1923年(大正12年)に起きた関東大震災で海底が隆起して現れた大石で、漁師の網が 切られたり、泳いでいる子どもが引き込まれたりして魔の場所として知られていたらしい。 この厄介な石は青年団らの手で引き上げられ、鶴岡八幡宮に納められたらしい。 ![]() 右手にあった大きな「社務所」。 ![]() そして左には巨大な「手水舎」。 社殿と同じ色彩に装飾され、全体を朱塗りとして、彫刻や軸部に彩色が施されていた。 ![]() 手前には竹に小孔を開けた水場があった。 ![]() コロナ禍で「手水舎」は閉鎖されていた。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.05.19 15:41:18
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