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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.01.18
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カテゴリ:国内旅行
「臼杵城跡」の散策を続ける。
「臼杵護国神社」を振り返る。



「臼杵城 大門櫓」を遠くに見る。



「臼杵護国神社」の「社務所」が右手に。



巨大な石鳥居の先に「大東亜戦争(第二次世界大戦)」案内板があった。



「大東亜戦争(第二次世界大戦)
馬締安正命
馬締安正命は、大正十五年一月十九日馬締兵市、チヨの三男として臼杵市大字戸室に出生。
市浜尋常小学校を卒えて昭和十七年四月東京陸軍航空学校に入学。引き続き熊谷陸軍飛行学校
第十四期少年飛行兵として修学、昭和十九年七月同校卒業。台湾第八飛行師団所属誠百十四
飛行隊特別攻撃隊員として訓練を受く。
昭和二十年四月二日沖縄慶良間列島西側海域において米艦船群に体当たり攻撃敢行戦死を遂げる。
同日陸軍少尉に昇進正八位勲六等功四級を賜る。
遺書
実父馬締兵市様
皇国危難の時新任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す国のため何か惜しからん。
死して甲斐ある命なりせば家の内ご一同様増産にお励み下さい。ご健康をお祈りします。
実兄馬締中尉殿
弟も栄ある任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す。兄上弟はお先に失礼いたします。
兄上には初志を貫徹して下さい。初志貫徹せば満足に感じます。先に弟は亡母のところに
行きます。」



古絵図を見ると二之丸・本丸にはかなり多数の櫓が建ち並んでいたようだ。
大門櫓から少し奥へ行ったところに残る巨大な石垣の土台。
これが「会所櫓跡」であると。
切りそろえられた石材がビッシリ積み上げられた櫓台。



「会所櫓跡」碑。



「会所櫓跡」からの夕景。



「武功抜群 木梨鷹一海軍少将の戦死
鷹一は、明治三十五年三月七日臼杵町野田753番地で生誕した。大正九年臼杵中学から、当時
受験競争率最高三十倍に達したと言われる海軍兵学校に進学(海兵五十一期生)、大正十二年
卒業。昭和五年航海学校航海学生(大尉)となり同六年に卒業後、潜水艦航海長になったが、
同十二年十一月海軍少佐となり、同十五年三月潜水学校甲種学生を命ぜられた。卒業時には、
成績優秀により恩賜の銀時計(各種学校首席卒業者に天皇が与える銀製の時計)を拝受している。
太平洋戦争勃発するや、潜水艦長として各海洋に進出し転戦偉功を奏す。伊号十九潜水艦長
として、昭和十七年九月十五日ソロモン海峡で敵機動部隊を捕捉し、魚雷六本を発射うち
五本命中で敵空母ワスプを撃沈、戦艦ノースカロライナ、駆逐艦オブライエンを大破させた。
昭和十八年十一月には、重大な使命を負いドイツへ向かった。インド洋上で補給船から補給を
受け、昭和十九年三月十一日フランスのロリアンに入港。そこで、新兵器操作技術の習得のほか、
ジェット機の設計図等新世代兵器設計資料を受け取った。その時の軍服には、ヒトラーから
贈られた二級鉄十字勲章が輝いていた。
八十七日を経て、七月十二日シンガポールに入港。空輸可能な設計資料は、厳谷技術中佐が取り
まとめ空路帰国。七月二十六日にバシー海峡で米潜水艦と遭遇、鷹一の乗った艦は魚雷を受けて
沈没した。
この旨が上聞に達し、生前の殊勲を嘉せられ二階級特進海軍少将に任ぜられた。行年四十三歳。」



「臼杵護国神社」の石鳥居越しに「大門櫓」を見る。



「大門櫓」下から臼杵市臼杵方面の街並みを見る。



「帯曲輪」の少し出っ張った先には、「鐘楼」があった。



「時鐘」碑。



「この時鐘楼の鐘は「原山時鐘」といいます。
鐘に刻まれた銘によると元禄十三年(一七〇〇年)に鋳造されたとあります。
その後、寛政ニ年(一七九〇年)に改鋳され、江戸末期までは原山時鐘堂(ニ王座)で時を告げて
いたものと記録に残っています。
明治六年(一八七三年頃)の臼杵城廃城後、この「原山時鐘」が臼杵城跡畳櫓横へ移され、
その後も昭和末期まで鐘の音を聞くことができました。
しかし、いつの頃からか鐘の撞き手がなくなり「鐘の音」は途絶えたままとなっていました。
平成二十年(ニ〇〇八年)臼杵城跡西の丸鐙坂の土塀復元に際し、この鐘は畳櫓横から約一四〇年
ぶりに、ここ時鐘櫓跡に置かれたが、鐘の音が復活することはありませんでした。
そこで、平成二十ニ年(ニ〇一〇年)六月、臼杵ロータリークラブは創立五〇周年記念事業
として、鐘の音を復活するため「時報楼」の整備をおこないました。
遠い元禄の昔から、うすき市民の思い出に刻まれつづけた鐘の音を感じていただければ
幸いです。」



「時鐘櫓跡」碑。



「時鐘」。



「時鐘櫓跡」から「大門櫓」、「畳櫓」そして「帯曲輪」の横に美しく畝る屋根付きの
白塀を見る。



白壁の下に見えたのが「大手門公園」。



「大門櫓」を振り返る。



「中門櫓跡」



「中門櫓跡」碑。



「中門櫓跡」前から「古橋口」方面に進む。



往路と同様に「狭間」付きの白塀の美を楽しみながら下る。



そして往路で見た横穴。ネットによると大東亜戦争中の「防空壕」だと。



再び振り返って。



石橋の古橋を再び渡る。



「古橋」の右側には時計塔その先にトイレがあった。



駐車場前から「臼杵城」の西側全景を見る。



「大門櫓」、「畳櫓」そして白壁。



「畳櫓」の横奥には十三夜の月が出ていた。



「大手門公園」の片隅に銅像があった。



「吉丸一昌像」。



「吉丸ー昌(よしまるかずまさ)は1873年(明治6年)臼杵市に生まれる。臼杵学校、大分中学校
(上野丘高校)を卒業後、第五高等学校(熊本大学)へ進学。ここで教授夏目漱石と出会う。
その後、東京帝国大学(東京大学)国文科へ進む。修養塾、下谷中等夜学校(東京都台東区)を
開設し、貧しい青少年の生活支援と教育活動を終生行う。卒業後、東京府立第三中学校
(両国高校)の教諭を務め、芥川龍之介を教える。
明治41年東京音楽学校(東京藝術大学)教授に招かれ、文部省から唱歌の編さん委員に任命される。
明治45年新作唱歌全10集を発表。この中に吉丸の作詞した「早春賦」(作曲中田章)
「故郷を離るゝ歌」が収録されている。1916年(大正5年) 42歳の若さで他界した。
                     没後100年を記念して 2016年記」



「吉丸一昌先生歌碑
早春賦
春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず」



「吉丸一昌先生の生いたち
出生 明治六年九月十五日、臼杵市海添(現在)~第五高等学校~東京帝国大学国文料
   明治三十四年七月卒業
学業 臼杵尋常等高等小学校~大分中学校~
職歴 東京府立第三中学校教諭
   東京音楽学校(現東京芸大)教授
   大正五年三月七日逝去(四十ニ才)
先生は、性質極めて磊落、常に故郷を愛し、苦しい生活の中にも向学の志を抱いた苦学生の為に、
修養塾を作り修学の便を与えられ、又「成功の華は墓前に咲く」を信条とし、日常の訓戒とされて
いた。文部省唱歌の編集委員でもあったが、自らも編集し、新作唱歌十冊を刊行した。
我が国音楽教育に大いなる貢献をされ、童謡運動の時鐘を鳴らされた。
「早春賦」は春を待ちわびる心であり「故郷を離るる歌」と双璧をなす傑作で、広く愛唱されて
いる歌である。
先生が、こよなく故郷を愛されたように、我々もとこしえに先生の功績を称え、郷土の限りない
誇りとして顕彰するものである。」



次第に周辺も暗くなり。



そして「畳櫓」の真上にこの日の十三夜の月が。



ズームして。



そしてこの日の「臼杵城跡」の散策ルート。



そして県道21号線を旅友のタフな運転で走り、この日の宿泊場所の
大分市内の「ホテル日航大分オアシスタワー」に無事到着したのであった。



この日のツインの部屋。



超格安ツアーで最後の宿として日航・JAL関連のホテルに宿泊出来るとは・・・・満足!!。




                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2022.01.18 07:56:45
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