|
カテゴリ:国内旅行
「仁田忠常」の墓があった「慶音寺」を後にして、伊豆縦貫自動車道を進み、「狩野川」に掛かる
「日の出橋」、「石堂橋」を渡って次に訪ねたのが県道129号線沿いにあった「成願寺」。 静岡県伊豆の国市原木158。 ![]() 寺号標石「曹洞宗成願寺」。 ![]() 頼朝が餅売りの媼(おうな・老女)の為に建立した寺。 源氏再興の悲願を胸に、若き頼朝は三島明神への百日詣でに通う道すがら、折にふれ原木にある 餅売りの媼の店に立ち寄りました。媼は不遇な源氏の御曹司を励まし、時には蛭ケ小島を訪れ 餅を献じることもあったといいます。1180(治承4)年8月、頼朝は兵を挙げ 平家を倒して 鎌倉幕府を開きました。頼朝は旧恩を忘れず、媼を訪ね「何なりと望みをかなえよう」と言った ところ、媼は「私は老い先短いので、阿弥陀仏を拝んで余生を送りたい」と願ったといいます。 頼朝は早速阿弥陀仏を与え、一寺を建立して媼の望みをかなえてやりました。 成願寺は媼の「我が願い成る」と喜ん だ言葉を寺号としたもので、本堂に向かって左側に 餅売媼の墓があった。 ![]() 山門の左側にあった「童地蔵」。 ![]() 入口に享和2年(1802)建立「三世一切諸経塔」、「六地蔵」、萬霊塔、庚申塔等石仏石塔群等が 祀られていた。 ![]() 「六地蔵」。 ![]() 「成願寺 源頼朝が流人として蛭ヶ島にいた頃、たびたび三嶋大明神(現・三嶋大社)に参詣していました。 途中の原木に餅売りのお婆さんの店があり、頼朝は参詣の折に立ち寄り休息しました。 その後、将軍となった頼朝は、恩に報いるため、お婆さんの願いである寺を建立しました。 その寺が成願寺で、境内には「餅売り媼の墓」があります。」 ![]() 「庚申塔」。 ![]() 近づいて。 ![]() 立派な「檀信徒会館 真慈閣」が左側に。 ![]() 多くの墓石、石仏が並ぶ。 ![]() 無縁仏塚だっただろうか。 ![]() 「檀信徒会館 真慈閣」前にあった石の祠。 ![]() 山門方向を振り返る。 ![]() 「心經五萬部讀誦供養塔」。 ![]() 「戦没者霊供養塔」。 ![]() 「本堂」。 曹洞宗 宝樹山 成願寺。 ![]() 「本堂」の扁額は「徳光」であろうか。 ![]() 「本堂」の「内陣」。 ![]() 「本堂」前の白梅。 ![]() 近づいて。 ![]() 歴代住職の墓か。 ![]() その中の左側にあったのが「餅売りの嫗の墓」。 ![]() 場所を変えて。 ![]() ![]() 「本堂」裏の墓地内からの富士山の勇姿。 ![]() 富士山を追う。 ![]() ![]() ![]() 多くの古い墓石が並んでいた。 ![]() ![]() ![]() 「廣雲孩児」と書かれた卒塔婆の前には石仏が。 「孩児」とは乳飲み子のことと。 ![]() 境内の紅梅。 ![]() 屋根には「笹竜胆(ささりんどう)」の家紋が。 笹竜胆は鎌倉幕府を樹立した源頼朝(みなもとのよりとも)の家紋。 ![]() 「飾り瓦」。 ![]() そして「成願寺」の斜め向かいにあった「実相寺」も訪ねた。 静岡県伊豆の国市原木154。 ![]() 「浄土宗 実相寺」。 ![]() 「狩野川台風洪水之碑」。 境内左側には、狩野川台風の際に浸水した洪水の水位が示されていた。 ![]() 「昭和三十三年九月二十六日天城山に七百ミリ以上の雨が降り、いたる所で狩野川の堤防は 決壊し八百六十人もの尊い人命が奪われた。当地の浸水位はこの碑の高さである。 今、防災意識の高揚を計ると共に犠牲者の冥福と住民の幸を祈るためこの碑を建立す。」 ![]() ここにも「六地蔵」。 ![]() 「本堂」。 仁安2年(1167年)840年昔、「俊乗坊重源」が源平の争乱で東大寺が「平重衡」の 放火で消失し「源頼朝」の発願で再建費用の調達の為にこの地に来たとき、住民の要望に答えて 「小松院」と称する真言宗の寺院を建立した。 その後、明徳3年(1392年)室町幕府三代将軍「義満」の時、「実蓮社相誉真阿至誠不脱上人」が 浄土宗に改宗し、「実相寺」と改め、現在に至っている。 現在の本堂は、昭和63年4月「落成」した。 ![]() 扁額「名號山」。 ![]() 内陣。 ![]() ズームして。 ![]() 観音像。 ![]() 石祠。 ![]() 「當山 浄誉代」と。 ![]() 「実相寺」から「成願寺」を見る。 ![]() ・・・つづく・・・ ・・・もどる・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.03.25 07:38:25
コメント(0) | コメントを書く
[国内旅行] カテゴリの最新記事
|