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JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.07.02
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カテゴリ:国内旅行
​​県207号線の左側に、鐙摺城址としての史跡でもあり、町指定文化財にもなっている
旗立山」への鉄製の階段があった。



葉山町指定文化財第四十三号
史跡 旗立山​👈️リンク
平成四年三月二十七日指定
高さ25mほどの頂上が平らな丸い小山で、鐙摺(あぶずり)山、軍見山とも呼ばれています。
『源平盛衰記』によれば、石橋山(小田原市)で旗揚げした源頼朝に呼応した三浦党は、鐙摺城
北側の小浜の入江から援軍として出陣します。石橋山の合戦で頼朝軍が敗走したことを酒匂川の
畔で聞いた三浦党は引き返しますが、小坪あたりで畠山重忠軍と遭遇、対峙します。
その後、お互いの誤解から合戦になりますが、このとき鐙摺城にいた三浦党の総帥三浦義澄は、
この山に旗を立てて気勢をあげたことから、旗立山と呼ばれるようになったといわれています。
また、『新編相模国風土記稿』によれば、伊豆蛭ヶ小島に配流されていた頼朝が、治承元年
(1177)に密かに三浦を訪れ鐙摺山に登った際、馬の鐙が擦れたことからこの名が付いたと
されます。                             
                                  葉山町教育委員会」


鉄骨製の階段を上って行った。



この木柱には??



鉄骨製の階段の後は、岩を刳り貫いた石段が。



そして平らな頂上に到着。



葉山町指定 史跡 旗立山(鐙摺山) 「伊東祐親入道供養塚」
伊東祐親には、娘が四人あった。長女は相模の三浦義澄の妻になり、次女は、はじめ工藤祐経に
嫁いだが、のち取り帰されて、土肥遠平に再縁した。三女と四女は、まだ父のもとにいた。
源頼朝は既に十三歳のとき、伊豆の国へ流されたが、伊東・北条の両人を頼みに暮らしていた。
三女は美人の名が高かったので、頼朝はそれを知って、つれづれのなぐさめとして、ひそかに
通ううち、男子が生れた。頼朝はおおいに喜んで、その男子に千鶴御前という名をつけた。
伊豆は、源氏にとっては祖先が往来した地であり、かつて部下が住んだ国である。平家全盛の
世に、雌伏している頼朝ではあったが、このたび男子が生れたことは、流人の身に、ひとしお
うれしく感じられた。千鶴御前・三歳の春、伊東祐親入道は、大番勤めを終って、京から伊東へ
かえった。しばらくは千鶴御前の事を知らされませんでした。
ある夕方、庭苑の築山で遊んでいた、千鶴御前の姿を見て、妻に尋ねた。頼朝が通った三女に
とっては継母だったので、いい機会とばかりに愚かしい言い方で、伊東祐親入道に頼朝と三女との
間の子で、貴方の孫御前ですと告げた。伊藤祐親入道は大いに腹を立て、
「娘が多すぎて置き場がなければ、乞食にでもやるが、源氏の流人を婿にするなどは、
まっぴらだ。もし平家におとがめられたら、なんとしよう。毒虫は頭をくだけ、かたきの子は
殺してしまえ、とは古語にもいっていることだ」
こうして郎党をよびよせ、千鶴御前を誘い出し、伊東の松川の上流の溜りに芝漬けにしてしずめた。
しかも、その三女を奪って、同じ伊豆の江間の小四郎に嫁がせた。さらにそのうえ、頼朝を
夜討ちにしようとして、郎党どもをあつめた。しかし、伊東祐親入道の二男・九郎祐清が事情を
話し、ひそかに北条の方に逃れるよう進言した。
源氏の時代になってから、伊東祐親入道は、かって頼朝に不信をはたらいたかどで、ついに
生けどりになって、婿の三浦介義澄にあずけられた。三浦介義澄は、伊東祐親入道の長女を、
妻にしていたのである。前の罪をのがれがたく、伊東祐親入道は、三浦の鐙摺というところで、
首をはねられた。」と。



植え込みに囲まれ、こんもりと盛り上がった所に「伊東祐親入道供養塚」があった。



その塚には塔婆も。



​現在地​はここ​​​​​​。​
​​



供養塚の近くから見える景色は極上、「江ノ島」をズームして。



鐙摺山、軍見山の山頂の広場を振り返って。
伊豆蛭ヶ小島に配流されていた源家の嫡流頼朝が、治承元年(1177)、三浦微行(びこう)の折り、
鐙摺山城に登るとき、馬の鐙(あぶみ)が地に摺れたのでこの名が付いたと言われる。
源平盛衰記では、石橋山に旗上げした頼朝に呼応した三浦一族の三浦党は、この鐙摺の小浜の
入江から援軍として出陣したとしている。
この合戦で頼朝は敗走するが、三浦党も酒匂川畔まで行き、敗戦を聞き引き返す途中、小坪
あたりで畠山重忠軍と遭遇したとき、お互いの誤解から合戦になるが、この時、鐙摺山城にいた
三浦党の絵師三浦義澄はこの様子を望見し援軍を送ったが、和解が成立し、再び軍をこの
鐙摺山城に引きかえした。
鐙摺山城を旗立山(はたたてやま)と呼ぶのはこのためである と。



そして上って来た鉄骨製階段を降りた。



道路面にあったマンホール蓋。
ヨット」、「ウグイス」、「クロマツ」、「ツツジ」がデザインされた葉山町の
汚水マンホール蓋
明治45年、国産ヨットが初めて帆走(はんそう)したことから、葉山町は「近代ヨット発祥の地」
とされています。 相模湾に浮かぶヨットを主役に、町の花「ツツジ」、木「クロマツ」、
鳥「ウグイス」をあしらったマンホール蓋で、親子蓋である本蓋は、親子あわせて壮大な海を渡る
ヨットを描いています。 ヨットが行きかう相模湾は、温暖な気候と黒潮の恩恵から多様な生き物が
生息しており、そうした環境へ配慮し、町の浄化センターは山間部に建設しました。
受枠に施された青い円は、山・川・海を廻る水を表し、「葉山の美しい水環境を未来の世代へ
引き継ぐ」という思いを込めています とネットから。



旗立山・鐙摺山を下って、海宝寺の先まで戻り、「あぶずり港(鐙摺港)」に向かって歩く。
「あぶずり港(鐙摺港)」手前の丘に上がって停泊中の葉山マリーナのヨット群。



全てのヨットが台車に載せられて。



「HAYAMA MARINA」と。



その先にあったのが「葉山港 日本ヨット発祥の地碑」。
葉山港は、「日本ヨット発祥の地」としても知られている。
日本にヨットが伝えられたのは、横浜港(現・山下公園)に外国人ヨットクラブが造られたの
が最初とされていますが、日本人では、明治15(1882)年、当時の農商務司法大臣 金子堅太郎
伯爵の子息がヨットを建造し、葉山で楽しんだのが始まりとされています。
葉山港の入口には帆の形をした記念碑が建立されています。
三浦郡葉山町堀内。



葉山港 港湾管理事務所」を見る。
三浦郡葉山町堀内50。



「葉山港」・「あぶずり港(鐙摺港)」。
葉山港は、三浦半島の相模湾側に位置し、鈿朝港とも呼ばれ、古くから澄業が営まれていると
ともに「日本ヨット発祥の地」として知られています。
昭和30年の神奈川国体では、ヨット観技の会場として、また、昭和39年の東京オリンピックでは、
湘南港のサブハーバーとして重要な役割を果たしました.
その後、平成6年に再整備に手し、平成10年9月には国民体育大会(かながわ・ゆめ国体)の
成年女子ヨット競技会場として利用されました。また、平成17年から18年にかけて、
港湾管理事務所の建て替えを行い、平成19年4月から供用を開始しています.
現在は、ヨット、モーターポートを約250隻、漁船を約40隻収容しています と。



この日の漁を終えた漁船が並ぶ。



右手にあったのが「明治大学体育会ヨット部合宿場」。



再び葉山港を見る。
長三郎丸」と書かれた漁船が並ぶ。



葉山あぶずり港の入口には数件の船宿が立ち並んでいて、向かって一番左にあるのが
「長三朗丸」の宿。



その先のT字路の角にあったのが葉山港改築「船溜竣工紀年」碑



記念碑には、「大正十ニ年九月一日ノ大震災ニ因リ海岸ノ隆起甚シク船舶ノ碇繋避難ノ利便ヲ
喪《うしな》ヒ」とあり、葉山港の船溜(ふなだまり)が隆起し使えなくなったことが
書かれています。また、漁船の係留は砂浜に引き上げるしかなく、一旦天候が悪化すると
大破する船が多かったことも書かれています。
さらに震災後、魚介類への需要は増大し、漁船の増加・大型化が進み、復興工事を願う漁民の
「痛嘆」(ひどく嘆き悲しむこと。痛切な嘆き)が長かったこと、この窮状を打開し新たな
発展拡大を目指し組合役員・組合員が一丸となって、鐙摺(あぶずり)船溜の再建を遂行した
ことが書かれています。地震によって地盤が隆起した様子や、総工事費十二万余円
(現在の貨幣価値で約6億円)にものぼった工事が、有力篤志家(味の素本舗の鈴木商店)の
資金援助のほか、多くの方々の協力で実現したことが確認できます とネットから。



「逗子市新宿5丁目」にある「披露山」を望む。
「旧石原慎太郎別荘」も中央に確認できた。



「あぶずり港内駐車場」の岸壁上にはブルーシートを敷いて何かを待っている家族の姿が。
最初は釣人家族かと思っていたが。



第67回逗子海岸花火大会」がこの日2024年5月30日(木)午後7時30分より開催されると。



逗子海岸の有料席図、車両通行止め(交通規制)案内図。



外海側の岸壁に様々なシートが敷かれ場所取りが。
近くにいたご主人に何が始まるのかと訪ねたら逗子の花火大会が今晩開催されると。
ここは無料の特等席なのであろう。時間はまだ、16時前、開催まで3時間半近く!!



逗子海岸沖の花火の打ち上げ台船(船台)をズームして。



「あぶずり港内駐車場」から1Fに、旬の地の食材を使用したフランス風創作海辺料理店
レストラン ラ・マーレ」のある建物を見る。



そして「小浜海岸」を見る。



「旗立山」の北側の道路沿いにあったのが「旗立山麓の丸石神」。
「手前に置いてある石は、条が残されていることから縄か綱が巻かれた跡のようで、
漁網(ぎょもう)か錨綱(イカリづな)に使われたのではないでしょうか。
そう考えると丸石も元は船を安定させるバラストだったのかも。かつて三浦半島の西側や
相模湾一帯は、通船の便があったと考えられています。」とネットから。



「小浜海岸」の先に見えたのが「逗子市浄水管理センター」。
逗子市内唯一の下水道終末処理施設
逗子市桜山9-2448-4。



「小浜海岸」から国道134号沿いの「葛が浜海岸」、「大崎公園 展望台」方向を望む。



「鐙摺葉山港入口」交差点。



花火打ち上げ船台を再び見る。



県道207号・森戸海岸線を北に進む。
この先から、逗子市が始まるのであった。
三浦郡葉山町堀内。



次に訪ねたのが「鳴鶴公園」。
「鳴鶴公園は逗子市にある住宅街のコンパクトな公園です。昭和後期につくられた
第二次ベビーブームのための公園です。」とネットから。



鳴鶴公園」。



「鳴鶴公園」内にあった「岩ケ谷遺跡」。



そしてここは「平田東助別荘跡」であると。
平田 東助​👈️リンク(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年
(1925年)4月14日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、政治家。農商務大臣・内務大臣・
内大臣を歴任した。山縣有朋の側近として知られる。また、第2次桂内閣において神社合祀を強力に
推進した。
出羽国米沢出身。爵位は伯爵。医師の伊東祐順は兄。爵位を継いだ長男の平田栄二(松堂)は
日本画家、その次男の松下正治は松下幸之助の娘婿となり松下電器産業会長を務めた。
次男の平田昇は海軍中将となった。
大正14年(1925年)3月、病気により辞任。同年4月に逗子のこの場所にあった
別荘に於いて薨去された とネットから




                                ・・・​もどる​・・・



                 ・・・​つづく​・・・








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Last updated  2024.07.02 22:58:09
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