|
カテゴリ:JINさんの農園
「常盤木橋」の手前の広場にあった「小田原城と小田原合戦攻防図」案内板。
![]() 赤:秀吉軍 青:北条軍 青線---:総構。 ![]() 「天正18年(1590) 4月、戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める 豊臣秀吉の大軍に包囲されました。 ●時代を画した小田原合戦 織田信長の死後、北条氏は従属を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、天正15年(1587)からは、 決戦に備えて小田原の城と城下を囲んで堀と土塁を構築しました(総構)。また、各地の支城を 整備して迎撃態勢を整えましたが、豊臣勢の進軍は早く、次々に支城は落とされていきました。 豊臣軍は武器や食料の調達・確保にも長け、豊富な物量を背景におよそ15万ともいわれる軍勢で 小田原城を包囲しました。そして、3ヶ月の籠城の末、北条氏直は小田原城開城を決意します。 合戦の終結により、豊臣秀吉による天下統一が成りました。」 ![]() 「●戦闘の経過 天正18年(1590) 3月1日、豊臣秀吉は小田原に向け京を進発しました。東海道を進む本隊は、 山中城(三島市)を突破し、4月中頃に小田原城を包囲しました。また、毛利輝元(本人は 京都留守居)等の水軍が物資輸送にあたり、前田利家率いる北国勢が上野国(群馬県)方面から 北関東に侵攻しました。 これに対して氏直は小田原城に主力を投入しつつ支城の防備を固めます。長期戦を覚悟した 秀吉は、早川(小田原市早川)西方の山上に陣城を構え、6月26日に本陣を移します。本隊の 猛攻に耐え小田原城総構の防衛線を死守するも、別働隊に主要な支城を撃破された氏直は、 これ以上の戦闘継続は無益と判断し、7月5日に城を出て降伏しました。 ●小田原合戦の意味 北条氏は、中世的ではあるものの、優れた領国経営を行っていました。そして、その本城である 小田原城は、堀と土塁で城と城下を取り囲む戦国最大規模の中世城郭で、「土の城」でした。 かたや秀吉が本陣を構えた石垣山城は、東国で最初に築かれた総石垣の近世城郭であり「石の城」 でした。 北条氏の滅亡により秀吉の天下統一が達成され、戦国時代は終わりました。小田原合戦は、日本の 歴史が中世から近世へと動く、歴史の転換点となった出来事だといえるでしよう。 また、小田原合戦後、参陣した武将は国元に戻ります。そして、自国を整備し、城郭の普請を 行いました。普請された城郭の中には、駿府城(静岡市)や御土居(京都市)、岡山城(岡山市)など 総構に代表される堅固な小田原城の姿を参考に行われたといわれているものもあります。」 ![]() 「北条方の支城網図」。 ![]() 解りやすい地図をネットから。 「小田原城を中心に、韮山城(静岡県伊豆の国市)、玉縄城(神奈川県鎌倉市)、八王子城 (東京都八王子市)、小机城(神奈川県横浜市)、館林城(群馬県館林市)、三崎城 (神奈川県三浦市)などの一門(当主の親戚のこと)の城や、鉢形城(埼玉県寄居町)、 松山城(埼玉県吉見町)などの支城を地域の軍隊を治める中心的な城として各地の 重要な場所に造り上げました。さらに足柄城(静岡県小山町)、浜居場城(神奈川県南足柄市)、 泉頭(いずみがしら)城(静岡県清水町)などの兵站(へいたん)基地(食料や物資を補給する ための拠点として設置)や戦闘用の城を街道に面した場所や国境の近くに構えました。 そして、城に交代で勤務する武将の配置から城の維持や管理をする武将たちまでを、落ち度なく しっかりと決めて、小田原城を中心にした守りを万全にしたのです。 こうしたシステムを本・支城体制といいます。北条氏は、このようにして小田原城を一番上位に 置いて、その下に様々な役割を持つ城を、自分が治める国の隅から隅まで配置したのです。」と。 ![]() 「障子堀想像図」。 障子堀とは、内部を畝(うね)状に掘り残して、堀底を区切っている堀のこと。 山中城の障子堀は見た目が美しく、城ファンでなくても思わず心ときめいてしまう魅力が あるのだ。まるでワッフルの網の目のようなので、ベルギーワッフルと一緒に写真撮影する 人も多いとか。 通常の堀と同じように、攻め寄せてくる敵を足止めする。そして堀の内部に敵が侵入した場合、 通常の堀と違って底が細かく区切られているため、更に動きが制限される。そうして底で動けずに いると、狙い撃ちの的に。もし必死でよじ上ることができたとしても、やはり狙い撃ちされて しまうのだ。こんな風に、見た目だけでなく効果も通常の堀より優れていることがわかるので あった。 ![]() ここは「常盤木坂(ときわぎざか)」。 「常磐木門」に向かって進む。 ![]() 「小田原城案内図」。 ![]() 「現在地」はここ。 ![]() 「本丸東堀と常磐木橋 江戸時代の小田原城本丸の周囲は、堀に囲まれていました。本丸の東側を画する堀を、 本丸東堀と呼んでいます。 本丸東堀は、発掘調査の結果、幅20m以上の規模をもつ水堀で、現在よりも5m以上深さが あったと想定されています。現在は、堀の形を平面表示しています。文久図には、この場所に 本丸とニの丸をつなぐ木製の橋が描かれおり、「常盤木橋」と名付けられていたことが 分かります。 これから先の本丸に出入りするには、この常盤木橋を渡り常盤木門から入るルートと、北側に 位置する相生橋を渡り、鉄門から入るルートがあり、この常盤木門から入るルートが正面口に なります。 常盤木橋は、関東大震災で土台の石垣ごと崩れて失われており、現在の橋は、2m以上低い位置に 再現されたものです。 常盤木橋は、明治3年に撮影された写真が残されており、当時の様子を知ることができます。」 ![]() 「文久図に描かれた江戸時代末期の常盤木橋と本丸東堀」。 ![]() 「明治3年の常盤木門と常盤木橋」。 ![]() 「イヌマキ 常盤木橋の前にある、樹齢約520年以上、幹周り4.5mに及ぶ市内最大の巨木。 本丸広場の巨松と双璧をなす。」 「小田原城跡のイヌマキ 所在 城内三ーニニ 樹相 目通り幹囲 四.五メートル 株元周囲 約六メートル 樹高 約ニ十メートル 枝張り状況 東西ニ十五メートル 南北十三メートル イスマキは、関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、 小田原市教育委員会」小田原市内の神社、寺院境内にも多く見られます。 この木は、幹回り4 . 5 メートルに及び、市内で最大のイヌマキです。 主幹は左巻きにねじれ、地上5 メートルのところで四支幹に分岐しています。 以前は、四方へ密に枝を広げ、傘状の見事な姿をしていましたが、台風のために北側の大枝が 折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまいました。 しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の 巨松と並ぶ双璧です。 ![]() 現在の「常盤木橋」手前から「常磐木門」の「枡形」方向を見る。 正面に「渡櫓」、左に「多門櫓」。 ![]() 現在の「常盤木橋」から左側の「花菖蒲園」をみる。 ![]() 現在の「常盤木橋」から右側の「花菖蒲園」をみる。 ![]() 「常盤木橋」を渡りながら左側を。 ![]() ズームして。 ![]() 右側を。 ![]() ズームして。 ![]() 「常磐木門」の「枡形」に向かって石段を上って行った。 ![]() 「常磐木門」の「枡形」の手前から。 ![]() 「小田原城 常盤木門」案内板。 ![]() 「小田原城 常盤木門 本丸には、常盛木門と鉄門というふたつの門があり、本丸にあった徳川将軍家の御殿を守って いました。そのうち、この常盤木門が小田原城の本丸正門です。 門の名前である「常盤木」とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した七本の松 (通称七本松、現在は1本「巨松」のみが残る)に由来しています。命名には、常に線色の葉を たたえる松のように、小田原城と小田原が永遠不滅に繁栄しますようにとの願いが込められて いると言われています。江戸時代初期からありましたが、元禄16年(1703)の地震で倒壊炎上し、 宝永3年(1706)に渡櫓門に南多聞櫓・北多聞櫓が付随する枡形門形式で再建されました (「文久図」、右図)。 明治3年(1870)、小田原城の廃城とともに解体されましたが、昭和46年(1971)に小田原市制 30周年事業の一環として渡櫓門と南多聞櫓を再建しました。 江戸時代には、櫓や櫓門の内部は倉庫や武具保管庫として用いられていました。現在、 常磐木門の渡櫓は「常盤木門SAMURAI館」となり、往時のように武具・甲胄を展示しています。 また、目本で唯一の甲冑に投影したプロジェクションマッピングを上映しています。」 ![]() 「文久図」に描かれた「常磐木門」。 宝永3年(1706)に渡櫓門に南多聞櫓・北多聞櫓が付随する枡形門形式で再建された と。 ![]() 「常磐木門」碑。 このあたりの石垣は古そうなのであった。 ![]() 「常磐木門」の枡形の先には、戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松)の姿が。 現在は1本「巨松」のみが残っているのであった。 ![]() 「常盤木門石塁復旧碑」。 ![]() 「大正十ニ年九月一日の関東大地震に小田原城址の石垣殆んど崩潰の厄を被った際 本丸正門の常木門の塁郭もまた崩れた その後久しく復旧の機を得なかったが、ここに 昭和三十五年ニ月より国並に神奈川県の補助を得て年次計画を以て復原に着手し、 同三十八年三月三十日総工費五百万円にて工事を完成した。 石塁旧観に復したのを記念して由来を石に刻して伝う 昭和三十八年三月三十一日 小田原市長 鈴木十郎」。![]() 「常盤木門」が右手に。 ![]() 「常盤木門」の屋根。 ![]() 「鯱(しゃちほこ)」の姿をズームして。 ![]() 「常磐木門」の「渡櫓」を正面に見る。 この「常磐木門」の「渡櫓」は「常盤木門SAMURAI館」となり、武具・甲胄を展示している のであった。 ![]() 「常磐木門」を正面から。 門の傍らに立つ松(常盤木)にちなんで、小田原城の永久不変の繁栄を願って、常盤木門という名が つけられたと伝えられているのだと。 ![]() 「常磐木門 常盤木門は、江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られて いました。古絵図などの記録から、江戸時代初期には設けられていたことが分かっています。 元禄16年(1703年)の元禄地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多聞櫓と渡櫓から構成される 桝形門形式で再建されましたが、明治3年(1870年)の小田原城廃城の際に解体撤去されました。 常盤木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、 小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名付けられたといわれています。 江戸時代には、常盤木門に隣接して、戦国時代からの「本丸の七本松」があり、現在もそのうちの 一本が本丸の「巨松(おおまつ)」として残っています。現在の常盤木門は、市制30周年事業として 昭和46年(1971年)に再建しました。」 ![]() 鉄筋コンクリート造(一部木造)で再建(さいけん)された「常磐木門」。 常盤木門は本丸の表門にあたるため、重要な防御拠点として、もつとも大きく堅固に造られた。 武器や食糧を貯蔵した多門櫓と、渡櫓を備える枡形の構造を持つ。 城の永久不変の繁栄を願い、かたわらに今も残る巨松を始め、常盤木が植えられた。 1971年(昭和46年)に再建されたとのこと。 ![]() 「常磐木門」下から石垣を見る。 ![]() 天井を見上げて。 ![]() そして「常磐木門」を潜り「本丸」に入り、振り返って。 ![]() 「↑天守閣」案内板。 ![]() 「常磐木門」の「渡櫓」内では刀剣や甲冑の展示を行っていた。 また、鎧兜や着物を着て、武士・お姫様・忍者に変身できる着付け体験も行っていたのであった。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.07.26 09:38:46
コメント(0) | コメントを書く
[JINさんの農園] カテゴリの最新記事
|