|
テーマ:憲法議論(165)
カテゴリ:憲法
日本国憲法 《通説・判例は,13条の公共の福祉が基本権制約の根拠条項であると見間違った。 通説・判例のように,“公共の福祉は基本権制約の論拠となる”としたとき,その法形式は41条の定めからして,“議会制定法,すなわち法律によらなければならない”と解されるだろう》(阪本昌成『憲法2 基本権クラシック』(有信堂)[全訂第3版]、p. 62) 第41条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。 《上のロジックは,〈基本権といえども絶対的ではなく国会の認定した公共の福祉を理由にして制約でき,制約のさいの法形式が法律によればよい〉という旧憲法下での法律の留保と変わらない(現行憲法には司法審査制が用意されているではないか,という制度的な解答では,内蔵された歯止め装置を用意したことにはならない)》(同) 第13条は国家に向けられた条文であり、「(国家は)立法その他の国政において、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を最大限尊重する必要がある(公共の福祉に反さない限り)」と言っているのであって、「公共の福祉に反する国民の権利は認められない」旨を述べたものではない。 《日本国憲法は,形式的法治主義を排除して,法の支配原理を採用した。 憲法典が「法律の留保」を採用しているか否かは,条文のスタイルに表れるのが通例である。自由権について憲法典が「法律の留保」を採用している場合には,「法律の定めるところに従い○○を保障する」「○○については,法律の範囲内で,保障する」と表現するのが通例である。日本国憲法の基本権保障の条文スタイルがこれではないことは,形式的法治主義を採用していないことのサインである》(同、pp. 62-63) よくこのように日本国憲法が<法の支配>を採用したと言われるのだけれども、私には違和感がある。 《「法の支配」の源流は中世にさかのぼる。そこでは、「法」が人間の意思によってつくられるものという観念は存在せず、「法」とは人間の意思をこえた「古きよき法」であった。したがって、そこでは、そもそも法の創造――立法――という観念はなく、あるのは、既存の法の発見――裁判――という観念だけであった。かような中世的な法の観念は、思想史的にはゲルマン法思想、権力構造上は、封主封臣間の相互的誠実の契約関係として構成された封建社会の構造を背景にして、何びとも――国王すら――既存の法を破ることができないという「法の支配」の観念を育ててきた》(樋口陽一『現代法律学全集36 比較憲法』(青林書院)全訂第3版、p. 131) 歴史に宿る「法則」や「秩序」を見出し参照しようとするのが<法の支配>というものである。が、日本国憲法は、戦前の歴史を否定すべく作られたものであり、GHQの法律の素人集団によって、各国の法律を切り貼りして1週間余りで作成したものであるから、その法源は、言ってみれば、マッカーサーにある。詰まり、現憲法における<法の支配>とは、マッカーサーの思惑を忖度(そんたく)するというおかしな話になってしまう。「人権」にしても、歴史的「時効」によって認められたものではなく、「人権宣言」にならい、人間であることがその源泉となっているのも「法の支配」とは相容れないように私には思われるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.03.18 21:00:07
コメント(0) | コメントを書く
[憲法] カテゴリの最新記事
|