1606266 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

照千一隅(保守の精神)

照千一隅(保守の精神)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Free Space

「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

Profile

平成ソクラテス

平成ソクラテス

Comments

Calendar

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

まだ登録されていません
2022.03.27
XML
テーマ:憲法改正(89)
カテゴリ:憲法

第20条 2 何人も、宗教上の行為、視典、儀式叉は行事に参加することを強制されない。

西部邁氏は、第2項について、次のように解説する。

《日本国憲法のままでもよいのであるが、問題は「宗教上の」という表現をどう解釈するかである。私は、常識にもとづいて、それは宗教上の価値を公的に表現することを目的とするような「行為、祝典、儀式又は行事」のことだと解釈するが、学校の入学式や卒業式における「君が代」斉唱をまで、皇室――「君が代」とは天皇の治世ということだ――と神道との深いかかわりのことを理由にして、忌避する市民もいる御時世である。つまり世俗の儀式におけるその部分を「宗教上の行為」とみなして国家斉唱に参加するように生徒に強制するのは憲法違反だというのである。

 あらゆる儀式は多かれ少なかれ宗教性を帯びるのであり、そして世の中には、儀式への参加を拒否したものに制裁を与えることによって秩序を維持するような集団もありうる。となると、参加を強制されないのは「宗教団体が中心となって催す儀式」だというふうに特定したほうがよいのではないか》(西部邁『わが憲法改正案』(ビジネス社)、pp. 176-177

 第2項の<宗教上の行為>に学校の入学式や卒業式における「君が代」斉唱が含まれる、含まれないと言って擦った揉んだするのもまた成文憲法の弊害なのであろう。儀式が特別な行事であり行為である限り、そこには何らかの「型」が要(い)る。多くの場合、その「型」は、伝統に依拠するものである。であるなら、多少なりとも宗教性を帯びてくることは避けられない。我々の日常生活においても、慣習的行為には何らかの宗教性が付帯する。すべての宗教性を排除することなど出来るはずもなく、また、すべきでもない。

 果たして、卒業式で君が代を斉唱することは、宗教権力に屈したことになるのだろうか。屈したとすれば、それは宗教ではなく卒業式を執り行う学校に対するものなのではないか。それを「政教分離」に反するなどとごねるような人達の権利を守らんとして憲法があるのではない。

 西洋における「国家と教会の分離」の原則は、権力の集中を避けることが目的なのであって、我々の日常から宗教的なものを排除せんとするものではない。そのようなことを画策するのは唯物論者でしかない。唯物論は宗教を否定する。が、宗教を否定する考え方もまた1つの「宗教」である。

 日本には西洋のキリスト教に当たるような宗教的権力はない。したがって、「国家と教会の分離」を憲法で謳うような必要はない。であるなら、第2項も必要がない条文ではないだろうか。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.03.27 21:00:07
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.