1606308 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

照千一隅(保守の精神)

照千一隅(保守の精神)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Free Space

「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

Profile

平成ソクラテス

平成ソクラテス

Comments

Calendar

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

まだ登録されていません
2022.04.02
XML
テーマ:憲法議論(165)
カテゴリ:憲法

《厳密な「政教分離」なんてあり得ない話である。

 そのあり得ない話、「政教分離」を形のうえで最も徹底し、純粋厳正に守ろうとしているのはフランスだけである。フランスは例外中の例外である。理由はフランスが革命国家であったこと、フランス革命が端的に反カトリック暴動であったことに由来する。国家と教会が敵対的であるこのような歴史を、他のヨーロッパ諸国はまったく経験していない。

 アメリカはやゝフランス寄りであるかもしれない。「政教分離」を少しうるさく言う人もいる。けれども、アメリカ連邦議会の両院には専属の牧師がいて、毎日議事について祈祷しているし、海軍士官学校や陸軍士官学校にも牧師がいる。アメリカの国家と宗教の間に密接な協力関係が成り立っている。大統領が就任式で聖書に手を置いて宣誓することはよく知られている。

 問題は日本の憲法解釈が、もっぱら革命国家フランスに合わせていることである》(西尾幹二「『神の国』発言が突きつけたもの」:2000年67日付産經新聞「正論」)

 詰まりは、「国家と教会の分離」を厳密に徹底している、西洋においても唯一と言って良いフランス以上に厳密にこれを徹底し、政治からあらゆる宗教的なものを排除しようとしている国、それが日本だと言うことである。

《日本人、ことに戦後の日本人は自由を脅かすものは頭から国家だと思っている。しかし「信教の自由」の発祥の地である西欧では、自由を脅かす最大の敵は宗教であって、国家ではない。さらに「政教分離」とは日本では政治から宗教を守ることと思われているが、西欧では宗教から政治を、つまり教会から国家を守ることにほかならない。じつにオウム真理教が出現するまで、わが国は宗教から国家を守る必要がなく、反国家的武力集団の宗教から近代市民国家の政治を守るのが「政教分離」の基本だという認識を欠いたままで、迂闊(うかつ)に過してこられた幸福、かつこのうえなく能天気な国家だったといっていい。

 これに対し、西欧の歴史においては、教会(ヴァチカン)の権力は、近代市民国家を抑圧する、まがまがしい、非合理な力とみられ、畏(おそ)れられてきた。宗教は武力を具(そな)え、政治もそれを制するに武力をもってし、「信教の自由」は宗権と国権との2つの力のきわどい均衡状態のうえに成り立ってきた。日本が日清・日露の戦いを終え、近代国家として自己を確立しつつあった20世紀の初頭におけるまで、西欧は宗教のこの実行力にかくも悩み、日本人の知らないもう1つの近代史を形成していた。

 しかるに日本では戦後、いっさいの武力を否定し、反国家をもって自由であるとし、国家を排除した後の力の空白状態を自由の名において放置してきた。力が空白であれば、別の小さな力が代わりにその穴を埋め、これをさんざん利用しょうという誘惑にかられるのは当然である。オウム真理教がスキを突いて、現行の国家に自ら取って替わろうとした主原因もここにあると考えられる。まずいのは彼らよりも、むしろスキを作った国家の側である》(西尾幹二『自由の恐怖』(文藝春秋)、pp. 51-52






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.04.02 21:00:57
コメント(2) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.