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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2022.04.25
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テーマ:憲法議論(165)
カテゴリ:憲法

浦部氏は、<生存権の権利性を承認するなら>(前回参照)と言っているが、そもそもこの命題が間違っているというのが私の意見である。<健康で文化的な最低限度の生活を営む権利>など左翼の勝手な言い草である。日本の歴史的営為からの帰結ではない。実際、ワイマール憲法を模範として、社会主義者の森戸辰男らが更に踏み込んでこのような文言を憲法に書き込ませただけである。

 <生存権>は、社会主義者が資本主義を否定する過程で生まれた権利である。

《資本主義の進展は、貧富の差を激化させ、無産者の生活苦を増大させる傾向を内包しているが、このような状況のもとで、いかにしてすべての国民に人間らしい生活を保障するかということが20世紀の国家が当面したもっとも基本的な問題の1つとなった。生存権に関する規定が人権宣言に登場してくるのは、このような課題にこたえるためであった》(池田政章:小学館『日本大百科全書ニッポニカ』)

 <生存権>という用語自体にも疑問がある。例えば、<生存権>ではなく「生活権」と呼ばれることもある。「生存」と言えば仰々しいが、「生活」と言えば柔らかく聞こえる。保障されるべきは「生活権」であって、生きるか死ぬかの「生存権」というようなものではないように思われる。

《憲法は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」、と定めている。この国民の権利を生活権という。生活権は、他の基本的人権と同じく、権利であるから、国民にして健康で文化的最低限度の生活を営むことを得ない者あらば、この国民は、国家に対して、その生活の保障を請求することができるのである。しかし、保障せらるべき生活の程度は絶対的なものではなく、相対的なものである。けだし、国民の生活を保障する国力が絶対的に定まっているものではないからである。国家は、国力の充実に不断の努力を必要とするゆえんである。

 生活権は、国民の基本的人権であるから、国家は、この権利の保障を実効あらしめるように務めなければならない。そこで、憲法は別に、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障、および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」、と定めている》(大石義雄『改訂 憲法講義』(有信堂)、p. 275

 浦部氏の説に戻ろう。

③憲法は生存権の実現手段を具体的に定めていない(浦部法穂『全訂 憲法学教室』(日本評論社)、p. 225

《③に関しては、これは手続法上の問題であって、そのことから実体法上権利であるかどうかが決まるわけではない、ということを指摘すれば十分であろう》(同)

 <生存権の実現手段を具体的に定めていない>から<プログラム規定>だということになるのであって、<実体法上権利>云々は関係ない。

《このように、「プログラム規定説」は説得的な論理をそなえたものではない。それが「通説」として君臨しえたのは、弱者を切り捨ててひたすらに経済発展を追求する支配体制にとって、いちばん都合のよい理屈だったからである。そして、最高裁判所も、この都合のよい「理論」によりかかって、国民の「生存権」の要求を拒否し続けているのである》(同)

 <弱者を切り捨ててひたすらに経済発展を追求する支配体制>などと言うのは浦部氏の偏見であり妄想である。立法も行政も司法も否定する浦部氏は、唯我独尊の「おたんこなす」にしか思われない。






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Last updated  2022.04.25 21:00:08
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