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テーマ:憲法議論(165)
カテゴリ:憲法
《本条(=第25条)はワイマール憲法の系譜に連なるものであるが,大きくいえば,近代立憲主義の措定する抽象的人間像から具体的人間像への転換を背景とする。本条の特徴は,積極国家(社会国家)の理念を基礎に,健康で文化的な最低限度の生活を営むことができることを主観的な「権利」として保障しようとしたところにある》(佐藤幸治『日本国憲法論』(成文堂)2011年、p. 361) <積極国家>という用語は、正体を隠した単なる美辞に過ぎず、実際は社会主義用語である。<積極国家>とは、「大きな政府」、「福祉国家」に他ならない。日本国憲法第25条は、平等主義に連なる「福祉主義」の要請である。 《物質的・経済的裏づけを必要とするこの種の事柄を「権利」として保障するのは適切か,法的にどのような意味をもちうるか,の問題を孕(はら)むもので,実際…様々な議論を生むところとなった(因(ちな)みに,第2次世界大戦後のドイツの憲法は,「権利」保障規定を直接有効なものに限っている)》(同) 当たり前だが、「義務」の裏付けのない「権利」の肥大化は社会を歪(ゆが)め秩序を乱す。日本が社会主義国を目指すというのでない限り、<生存権>など認めるべきではなかったと私は思っている。 《「自由権」という18・19世紀的権利に対して,国家による人間の生存の確保にかかわる「生存権」という20世紀的権利を明らかにしたものと受け止め,28条までの権利を包括して「生存権的基本権」と捉える説がいち早く主張され(我妻栄),憲法解釈に大きな影響を与えた》(同) <20世紀的権利>とは何だ。要は、社会主義的権利ということではないか。佐藤氏は、古い「自由権」に対し、新しい「生存権」という構図で「生存権」を持ち上げて見せる。が、1991年のソ連邦崩壊後、社会主義思想の化けの皮が剥がれてしまったのだから、「生存権」という考え方も見直す必要があろうかと思われる。 《当初は,1項と2項とを一体的に捉えつつ,25条はいわゆるプログラム規定か否かをめぐって議論が展開され,それを肯定するプログラム規定説が支配的であった。それは,同条は政策的目標ないし政治遺徳的義務を定めたものであって,個々の国民に何か具体的な請求権を保障したものではないというものである。資本主義経済体制の特質,憲法規定の抽象性,財政立憲主義上の理由等々が,その根拠とされた。そして食糧管理法違反事件判決が「〔25条〕により直接に個々の国民は,国家に対して具体的,現実的にかかる権利を有するものではない」と述べて,この説を裏づけるものとされた。 しかし,この説および判決をそのまま受け取れば,国家は法から全く自由ということになってしまう。この立場の根拠に疑わしい面があるだけでなく,何よりも25条1項が「権利」として保障するといっているものを,実は法的には無意味であるとするのは,あまりに恣意的ではないかという強い批判がなされたのは当然である。そして実は,この説の論者も,生存権の“自由権的効果”について語り,あるいは25条が法律の解釈準則となると説く傾向にあった。 そこで,本条に保障する「権利」は法的に意味のあるものとする法的権利説が通説化する》(同、p. 363) が、そもそも非現実的な第25条1項に問題があるのであって、現実的には、第25条を書き換えるなり、削除するのが筋なのではないか。【了】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.04.26 21:00:07
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