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カテゴリ:歴史・戦史
< 孤児たちの日本への感想 > 日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の保護を受けました。 ここで、孤児たちの回想から、いくつかご紹介したいと思います。 ウラジオから敦賀に着くと、衣服はすべて熱湯消毒されたこと、 支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入れて貰って感激したこと、 特別に痩せていた女の子は、日本人の医者が心配して、 毎日1錠飲むようにと栄養剤をくれたが、大変おいしかったので 一晩で仲間に全部食べられてしまって悔しかったこと・・・ 到着したポーランド孤児たちは、我が国民の大きな関心と同情を集めました。 無料で歯科治療や理髪を申し出る人たちが現れ、学生音楽会は慰問に訪れました、 仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に招待しました。 慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を絶たなかったそうです。 仲良くなった日本人の子供が、自分の服を脱いで上げようとしたともいいます。 悲しい話もありました、腸チフスにかかっていた子供を看病していた 日本の若い看護婦は、病の伝染から殉職しております。 1921年4月6日、赤十字活動を熱心に後援されてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も 日赤本社病院で孤児たちを親しく接見され、その中の3歳の女の子 ギエノヴェファ・ボグダノヴィッチちゃんを、お傍に召されて、 その頭を幾度も撫でながら、健やかに育つようにと話されました。 < 孤児たちのお別れの様子 > このような日本の保護で、来日当時は、 哀れにやせこけていたシベリア孤児たちは、元気を取り戻しました。 日本出発前には各自に洋服が新調されましたし、 航海中の寒さも考慮されて毛糸のチョッキまでが支給されました。 この時も多くの人々が、衣類やおもちゃの贈り物をしました。 横浜港から、祖国へ向けて出発するとき、幼い孤児たちは、親身になって世話をしてくれた 日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がったそうです。 孤児たちは、「アリガトウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、 幼い感謝の気持ちを日本人に表したのです。 神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、 大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈りながら、 涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っておりました。 子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、 ひとりひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫でて、 熱が出ていないかどうかを確かめていたと言います。 その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想して言葉を残しています。 < 極東青年会とドイツ軍事同盟 > 祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウコフスキ少年がおりました。 イエジが17歳になった1928年、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織、 自ら会長となりました。 極東青年会はその後、拡大発展し、国内9都市に支部が設けられまして 30年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたといいます。 極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問した時、 思いがけない人に出会いました。 イエジ少年がシベリアの荒野で救い出され、 ウラジオストックから敦賀港に送り出された時、 在ウラジオストック日本領事として大変お世話になった渡辺理恵氏だったのです。 その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐在代理公使となっていました。 これが契機となって、日本公使館と、極東宣言会との親密な交流が始まりました。 極東青年会の催しものには大使以下全館員が出席して応援し、資金援助もしました。 1939年、ナチス・ドイツがポーランドへ侵攻し第二次大戦が勃発しました。 イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集、レジスタンス運動参加を決定します。 イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ部隊と愛称されました。 そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、 さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加し、 このイエジキ部隊は、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがりました。 ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、イエジキ部隊にも ナチス当局の監視の目が光り始めます。 イエジキ部隊が、隠れ家として使っていた孤児院に、ある時、 ドイツ兵が強制捜査に押し入りました。 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使館が 保護していることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、 「君たちこのドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼みました。 イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱すると、 ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しました」といって直ちに引き上げたのです。 当時日本とドイツは三国同盟下にありましたから、あのナチスといえども日本大使館には 一目も二目も置かざるを得ないのでありました。 日本大使館は、この三国同盟を最大限に活用して、 イエジキ部隊を何度も庇護したのです。 次回は、ポーランド人の暖かい言葉と返礼・・・ ↑ プログランキングに参加しています、何か感じましたらクリックをお願いします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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