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カテゴリ:歴史・戦史
明治に入り列強の仲間入りをした日本は、天皇の御世を前面に押し出していく、
日本人に希薄なアイデンティティと中心的存在を明治政府は天皇に求めたのだ。 黒船来航とともに急速に世界の渦中に引きずり込まれる日本国、 極東の平和な島国は、君が代を「天皇の世=日本の世」とすることで 体制の強化と我が国の中心線を決定し、外国との対等外交に向かうのであった。 今回は時系列で「君が代」を追っているので、わかりやすいと思ったりする。 明治15年1月、国歌選定に着手、「小学校唱歌集」作成などと並行して行う。 3月、六編の草案を書き上げる、 その壱(二首)神器・国旗 その弐(三首)日出処・日本武尊・蒙古来 その参(二首)聖世頌・蒙古来 その四(四首)尊王愛国 その伍(二首)大伴家持・神功皇后 その六(三首)楠氏の軍歌に擬す では例として最初の「神器」の歌詞を書いておこう。 国を照すは鏡なり国を守るは剣なり 国の光は勾玉の妙なる玉にぞたとふべき 天津日 のつぎつぎに三種の宝伝へ来し、すめら御国は大君の 千世万世も治しめす国 (合唱) いざ国民よ 君万歳と歌へかし 君万歳と祝へかし いざ国民よ 君万歳と祈れかし こうしてひとまず草稿を出し、国際交流の場で歌われる国歌の選定については、 フランスの「ラ・マルセイエーズ」を念頭に、 「国歌というものは、特定の個人あるいは機関がある意図を持ってつくろうとしても できるものではない。あまり焦らないようにしよう。」 と政府が国歌をつくり強引に歌わせる方法には慎重な姿勢を示し、 この選定作業を中断させたのだ。 明治政府の教育制度の変遷を縦並びで記しておく。 明治19年3月2日 小学校令公布。中学校令公布。 明治21年2月3日 文部省、「紀元節歌」を学校唱歌として選定送付 紀元節・天長節に祝賀式典を行うよう内命。天皇崇拝を普及。 明治22年12月 文部省、全国の高等小学校に「御真影」を下付。 この保管のため、奉安殿・泰安陣を設置。 登下校の際には必ず最敬礼。 明治政府は明治22年2月11日、大日本帝国憲法を発布した、「君が代」が 学校で国歌として扱われるようになったのは、明治政府が明治23年10月 30日、「教育勅語」を発布してからである。 明治24年6月17日、文部省令「小学校祝日大祭日儀式規定」を制定、同年 10月には道府県に対し、祝日大祭日に歌うべき歌について「主として尊王愛国の 志気を振気するに足るへきもの」と指示する通牒を発し、祝大祭日に相応しい唱歌 を合唱することなどを定めていたが、相応しい唱歌が具体的には示されておらず、 まだまだ選定の段階であった。 この後、紆余曲折があり、文部省は明治26年8月12日、儀式用歌詞を選定し 「祝日大祭日唱歌」として、君が代、勅語奉答、一月一日、元始祭、紀元節、 神嘗祭、天長節、新嘗祭の8曲が選定され、官報付録に発表した。 これを官選唱歌という。 そしてこれを普及させるために義務教育の小学校において、まず「君が代」を公式に 取り上げることとした。 「君が代」は法制化されていないにも関わらず、明治33年8月20日に小学校令が 全面改訂されたのに伴い、制定された「小学校令施行規則」により、祝日大祭日には、 紀元節・天長節・一月一日に「君が代」をを合唱することが義務付けられた。 之に先立つ明治30年には、陸軍が「君が代」を軍楽の奏楽として公布している。 「君が代」は実際、法制化はされていないのだが、 学習綱領として国民の間に普及、定着していき、やがて国民生活の なかで慣習法化するまでに至る、これは明治時代の日本の全体の 雰囲気や日本民族の意識によって、いつの間にか国歌として扱われる ようになったのだ。 君が代を不協和音で演奏するとはふとどきせんばん!斬り捨てる! 次回は「共産党・日教組VS文教族」をアップしようと思っていたのだが、 なにやら面白い記事を毎日新聞さんが書いたようなので、サラッと変更、 「各国の掲揚と斉唱の教育現場の違いと、こんな教科書でいいんですか?」を アップします、それではごきげんよう、また明日~~~。 一 夢 庵 風 流 日 記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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