”靖国神社、A級戦犯合祀、新たな資料”
国立国会図書館は28日、靖国神社が提供した内部資料や、これまで非公開だった中曽根内閣当時の「閣僚の靖国神社参拝に関する懇談会」(靖国懇)の議事録など、靖国神社に関する資料集を公表した。靖国神社が昭和44年、「A級戦犯」を「合祀(ごうし)可」とする見解を示す文書を厚生省に提示するなど、戦後、両者が一体となり合祀を進めてきた過程が明らかになった。
旧陸、海軍両省の業務を引き継いだ厚生省援護局と靖国神社は、「合祀基準に関する打合会」などを頻繁に開き協議。この過程で厚生省は41年2月8日、A級戦犯を含む合祀の名簿である「戦争裁判関係死没者に関する祭神名票」を靖国神社に送付した。
これを受け44年1月31日、靖国神社社務所で開かれた会合で神社側は、厚生省との「再確認事項」として「法務死没者」の「A級(12名)」と「内地未決死没者(10名)」を「合祀可」とすることを提示した。ただ「総代会の意向もあるので合祀決定とするが外部発表は避ける」とし、世論の動向を気遣っていたことをうかがわせた。
その後、靖国神社は45年、総代会でA級戦犯の合祀を決定する。実際に合祀したのは53年10月で、その9年前に一定の結論に達していたことになる。合祀されたA級戦犯が14人となったのは、東京裁判の未決勾留中に死亡した松岡洋右元外相と海軍の永野修身元軍令部総長が「内地未決死没者」に含まれているためとみられる。
BC級戦犯の合祀についても慎重に検討が進められたことも分かった。33年4月9日の打合会(第4回)で厚生省は「個別審議して、差し支えない程度で、しかも目立たないよう合祀に入れてはいかが」と提案。同年9月12日の打合会(第7回)でも「全部同時に合祀することは種々困難もあることであるから、まず外地刑死者を目立たない範囲で了承してほしい」と、BC級戦犯の合祀を先に決定するよう打診した。
36年8月15日、靖国神社は「終戦後における合祀審議の状況」の中で、A級戦犯は「保留」とし、BC級戦犯のうち外地処刑者は「合祀」、内地処刑者は「合祀予定」とした。
資料集は「新編靖国神社問題資料集」で、A4判1200ページ。資料集は非売品で、5月の連休をめどに国会図書館のホームページ(HP)に公開される予定。
合祀判断 慎重さ裏付け
国立国会図書館が公表した「新編靖国神社問題資料集」は、戦後、国(厚生省)と靖国神社が一体となって「A級戦犯」を含む戦没者、戦犯刑死者の合祀に努力してきたことを裏付けるものだ。
靖国神社が全面的ともいえる協力で提供した内部資料は、合祀基準の形成の過程、とりわけこれまで判明していなかった戦前の合祀基準も含まれており、日本の戦没者追悼の歴史を検証する上で一級の資料といえる。
敗戦に伴い陸、海軍両省は廃止され、靖国神社は宗教法人化された。陸海軍両省の業務を継承した厚生省援護局が、靖国神社と協力して戦没者の合祀作業を進めたのは、戦没者を認定する能力が厚生省にしかない以上、当然のことだ。厚生省が戦没者の「祭神名票」を靖国神社へ送付してはじめて、合祀が行われていた。これを知りながら「政教分離に反する」と批判する向きがあるが、戦没者合祀をやめよと言うに等しい。
厚生省と靖国神社が戦後、綿密な協議を重ね合祀を進めた事実は、戦没者や連合国の戦争裁判によって処刑された人々への慰霊をまっとうする責任を、当時の政府が果たしていたことを意味する。
靖国神社が「新聞報道関係の取り扱いいかんで、その国民的反響ははなはだ重要な問題として考えなければならない」(昭和33年9月12日)としたように、協議は時間をかけ慎重に進められたことがうかがわれる。ただ、今回の資料集では、なぜ53年の時点でA級戦犯の合祀に踏み切ったかその理由までは示されていない。(榊原智)
(2007/03/29 03:06)産経
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靖国神社への戦没者合祀(ごうし)を巡り、当時の厚生省が合祀対象者の決定に、積極的に関与していたことが、28日、国立国会図書館が公表した「新編 靖国神社問題資料集」で明らかになった。
同省は戦犯などの合祀について、神社側と頻繁に協議を重ね、見解を述べていた。同省が合祀対象者の決定に果たした役割がわかる資料は初めて。
A級戦犯が合祀された9年前の1969年に、同省が神社側の合祀の意向を把握していたことを示す資料もあった。研究者は「国と神社側が協力しながら合祀者を決めたことが分かる貴重な資料」と話している。
同図書館では、靖国神社参拝問題に関連し、調査や資料提供の依頼が増えたため、昨年から関連資料の収集を行っていた。資料集には、靖国神社が所蔵する非公開資料や、厚生省と神社側との協議内容など、計808資料、約1200ページにわたり収録されている。
資料によると、1956年、当時の厚生省が、戦没者の靖国神社合祀について、「3年間で完了するよう協力する」という要綱案を作成。同年以降、同省と神社の協議が断続的に開かれ、合祀基準を詳しく決めていった。協議は神社の社務所に、厚生省側が出向いて行われた。
58年4月の第4回会合では、同省側が「戦犯者はB級以下で個別審議して、差し支えない程度で、しかも目立たないように入れてはいかが」と提案。同年9月の第7回会合でも同省側が、戦犯について「要するに職務上犠牲になった者あるいは事実に反した訴因によるもの」とし、「(だれが合祀に)不適格という事は出来ない」と合祀に積極的な姿勢を見せ、「まず外地刑死者(BC級戦犯)を目立たない範囲で(合祀することで)了承して欲しい」と、具体的に提案していた。
また、A級戦犯の合祀を巡り、靖国神社が69年1月、同省と会合した内容の資料があることが分かった。神社側が作成した資料には「A級(12名)」が「合祀可」と記載され、「総代会の意向もあるので合祀決定とするが外部発表は避ける」と別記がある。実際に合祀されたのは78年10月で、同省がその9年前に、神社側の合祀の意向を把握していたことが明らかになった。
旧厚生省が66年2月、靖国神社に対し「合祀を保留されていた戦犯関係死没者」として、A級戦犯を含む名票を靖国神社に送ったことはこれまで判明していたが、その後実際にA級戦犯が合祀されるまでの間、どのような経緯があったかは分かっていなかった。
厚生労働省社会・援護局では「66年に名票を出した後に、事務処理のための打ち合わせがあったのかもしれないが、旧厚生省の記録は残っておらず、確認できない」としている。
(2007年3月29日3時0分 読売新聞)
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これに対し、安部首相は、「問題ない。合祀を行ったのは神社だ。(旧厚生省は)
情報を求められ(資料を)提出したということではないか」との政教分離は守られて
いるという見解を示した。
慶次はこのブログを立ち上げたと同時にフリーページに靖国神社の歴史を書いてい
た、マスコミの当時の取材テープなどを起こし、わかりやすく書こうとしたのだが、
途中で飽きた、3年前から放置(笑)。
いまでも、「工事中」になっているそのページをのぞいていただければ、少しは靖国
の流れがわかるかもしれない。
それにしても安部さんの言いたいことがよくわからない、政教分離がどうのこうのと
必死になっているが、そんなことより、慶次には納得できない点が存在する。
国家のために殉じた人たちを靖国神社が勝手に祀っているのであって、それは国が
介入できる問題ではないというこの幼稚な意見に吐き気がする。
国家のために殉じた方々を国家が見捨ててどうなるのだろうか?
ちっぽっけな一神社が勝手に国家の英霊を合祀分祀などと意見を述べ、勝手な教義で
祀るなっての。
英霊が靖国に祀ってあるので、首相はそこに行ってお参りするというが、あちこちで
勝手な教義で祀るようになったら(カミはあちこちで祀られている)、すべての神社を
回るのだろうか? とんでも宗教が登場して毛沢東とスターリンとヒトラーとルーズベ
ルトと日本の英霊を一緒に祀る神社が出てきたら、首相はそこへもお参りに行くのだろ
うか?
国家の英霊を国家が保護できない(靖国が勝手に祀っているという逃げ)状況は、
明らかにおかしいのだ。
フリーページの工事中(靖国)の後半として、宮司の変遷からいわゆるA級戦犯合祀、
そして昭和天皇と今上天皇の靖国神社への想いを資料を交えて書こうとしていたことを
思い出した。
時間があれば書こうと思う、多分、時間が無いから挫折だろうな
今回の新聞記事は「産経」と「読売」を取り上げたが、信濃毎日や沖縄タイムズ、
西日本新聞などの談合左翼バリバリマスコミは、慰安婦問題と絡めて日本政府叩きに
必死である。
朝鮮日報や中央日報などの記事を紹介し、韓国側の怒りとして政治問題化しようと
真っ赤になって頑張る左翼系新聞
これにより「追悼施設」派が活発に動くだろうな、毎度のことだが、マスコミが種火
を見つけ、他国に火をつけ、尻馬に乗って騒ぎ出す議員たち・・・
合祀賛成反対議論や新たな追悼施設問題は、もう少し、じっくり落ち着いて議論でき
るといいのだが
一 夢 庵 風 流 日 記