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“分類”とは“哲学”だ。説教“芸”に味わいあり。愛らしいイラストつき。
コラムニスト中野翠が様々に展開する「人間二分法」の世界。 全50章からなっています。 「鋭い指摘だ」と唸るものあり、「我が意を得たり」と頷くものあり。気楽に読めるし、バラエティーに富んでいます(オススメd(^-^o)。 気になった各章をほんの少し紹介。 「それはうたう人とひねる人だ」 短歌は「うたう」で俳句は「ひねる」と言いますね。 p14「たいていの短歌は、私を照れくさくする。好きな短歌でも『---なあんちゃって』と照れかくしフレーズを付け加えないと、自分の心の中でおさまりが悪いのだ。」 わかるような気がする。 俳句は本質的に自己完結し得ない、開かれた点があるんじゃないでしょうか(無論、どっちが上という事ではない)。 「それは嫌いな言葉を持てる者と持たざる者だ」 女性の国会議員F(誰ぁれだ(^o^)が好きになれないという話。「ノミュニケーション(呑みニケーション。駄洒落)」という言葉を使う言語感覚が嫌いだ、という理由(「女のくせに」といった言葉を“思想的”に嫌う、という事とは全然違う)。 大笑い。 p17「理屈ではうまく説明できないけれど何となく嫌い、という言葉があるかどうかなのだ。『何となく』というのがたいせつなのだ。」その通り。 「それは『キチッと』と言う人と『ザッと』と言う人だ」 p24「TVの『朝まで生テレビ!』を見るたび、私は思う。社民党の女性代議士は代々、『キチッと』という言葉が好きだなあ、と。」 そうか、気付かなかったな。これまた大笑い。 p24「御説ごもっとも。異論はない。正しいことを言っている・・・・・と思いながらも、私の頭にはウッスラとした疑問が湧きあがってしまうのだった。この人にとっての政治って、何だか整理整頓作業みたいじゃない?」 「整理整頓」という“語”にこれまた大爆笑。 中野翠女史は“見立て”が上手いな。 「それは『にぎやか』と言う人と『うるさい』と言う人だ」 p51「やさしい日本人のほうがよっぽど複雑」鋭い分析だ(世間では往々、逆のように思われているが)。 「それはこなれた人とこなれない人だ」 「松浦亜弥は若いのにも拘らず世馴れている(という印象)」という指摘に唸る。 「それはヘチマのような人とカボチャのような人だ」 おぉ。「宙にぶらさがっている人」と「地に腰を据えている人」ね。 『我輩は猫である』からの着想。 「それは皿の裏を気にする人としない人だ」 p89「たかが皿の裏だけれども、一事が万事、そういう生活の些事にこそ、その人間の生き方の姿勢がハッキリと出るのだ。生活というものをどこか馬鹿にして、自分には生活なんていうものよりもっと凄くて偉くて貴いものがあるかのような妄想に取り憑かれて、結局、一生上の空で生きているだけなんじゃないか?」 良い指摘。 「それは世間の中心に向う人と中心からはずれる人だ」 エキセントリックとは元々「偏心的」の意味。 「日本にはエキセントリックな人物が育ちにくい」との知人の手紙に触発されての章。 p95「世間のシバリが強い昔(明治時代)のほうが、かえってエキセントリックな人物が輩出しているみたいなんですよね。社会の自由度(世間的なシバリのゆるさ)と個性的であることは、ほとんど関係ないみたいなんですよね。」 もっと言えば、“自由”になるほど、逆に、人は“模倣”しあうんじゃないでしょうか。 「それはひっそり消えたい人とハデに退場したい人だ」 『みなさん、さようなら』という死ぬ間際に友人・知人を集めて最後を看取らせるという映画への違和感について(最後まで自意識過剰。「みんな、見て見て~」)。さらに『落語無頼帳』(大西信行著)のある落語家のエピソードを紹介。「(その落語家は)死ぬと悟って 臨終に立合ってほしい人たちを呼び集め、自身は積み上げた蒲団に身を凭れかけて死を待ち受けていたが、そう思うようにうまくは死ねないで困った顔をしていた」という話。 笑っていいのか、悪いのか。 確かに著者も述べている通り、動物はひっそり死にますね。 私も死ぬ時ぐらい、“自意識”から離れた方が良いと思います。 「それは金持性の人間と貧乏性の人間だ」 山田風太郎『戦中派復興日記』から一節を紹介。「人には本来金持性の人間と貧乏性の人間がいるようだ。貧乏性の人間が金持ちになると決して闊達にも親切にもならず、ケチで傲慢で猜疑心がつよくなる。金持性の人が貧乏になると決って謙遜にも清閑をたのしむ気にもならず、ヒステリックになりつむじまがりになり、ひねくれ者になる」 そこから著者は世の中には四種類の人間がいると考える(たちのいい金持性、たちの悪い金持性、たちのいい貧乏性、たちの悪い貧乏性) 頷ける話だなぁ。 そういえば日本映画には、“貧乏”が描かれた作品で“味わい”のあるものは多いですが、“金持”で“味わい”のあるものは滅多にないですね。いやそもそも、“金持”の描写に成功している日本映画そのものがあまりないような気がします(大抵、「ただお金を一杯持っている“貧乏”人」(昨日今日の成金)にしか見えない)。 「それは『幹事』がつとまる人とつとまらない人だ」 説明不要(^o^)。 「それはハゲシイ人とユルイ人だ」 明治のコラムニスト斉藤緑雨の言葉を紹介。「それがどう何(ど)うした。唯この一句に、大方の議論は果てぬべきものなり。政治といわず文学といわず」SO WHAT? 頷ける。 (その後、著者はいろは歌の「ん」の字がコワイと書いているが、妙な感性だと思う。「ん」が虚無を象徴しているようだ、おまけに形もニュルーッとしている、と述べている) 「それは『モテ』を買う人と買わない人だ」 ホストクラブやキャバクラに触れて「おカネを払ってモテたところで、うれしくも何ともないじゃないか、嘘じゃないか、偽りじゃないか、ばかばかしい・・・・と思ってしまう私は、いわゆるヤボテンという者なのだろう。」 私もバカバカしいと思う。ネコにマタタビパウダーでもやった(もてるよ~(=^ェ^=)方がよほど気が利いているのではないか。 “分類”するという知的作業は、結局、“哲学”的営為でしょうね。 「“キメツケ”人間二分法」。私も何か“でっち上げ”てみたくなりました。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年04月30日 15時48分43秒
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