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『犬の鼻先におなら』

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2009年07月02日
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甘美な孤立感。表題作以外は砂糖とクリーム多すぎ。

 ジュール・シュペルヴィエルの名を知らなくとも「沖の少女」の題はご存知という方は多いのではないでしょうか。海の沖合いに何故か無人の街が存在し、その無人の街でたった一人孤独に生活する少女。
 幻想的であり、少し感傷的な味わいのある短編です。

 本作品集は、その「沖の少女」を含め、八篇の短編集と詩が収められています。
 (どうでもいいけど、「シュペルヴィエル」って名前、言い難くありませんか。今一つこの名前が有名でないのは言い難さに原因があったりして)

 本作品集は、その表題作を含め、8篇の短編と詩抄が収められています。

 幾つかの短編の感想。

 「沖の少女」
 傑作です(傑作だから有名なのですが)。そして、実際、この作品しか知られていないのも、頷けます。それぐらい見事。

 孤独な少女の無人の街での生活が、淡々と描写されているのですが、その「淡々さ」が素晴らしい。

 本書に収められている作品の多くは、かなり感傷的な作品が多いのです。好みの問題もあるのでしょうが、一寸私には、“甘すぎ”ました(この辺りが、彼が「一作の人」となってしまっている原因なんじゃないでしょうか)。

 しかし、例外的に、この作品はかなり「淡々」としているのです。「他に住民がいない無人の街」という“乾いた”設定が、感傷の“甘さ”を抑制する事になったんじゃないかと思います。

 また、生活の細部に力点を置いた描写が、少女の愛らしさを浮き上がらせています。そしてまた痛ましさも。
 この無人の街は、ひとりでに生活物資が出現し、少女も、それが何の不思議でもないように、生活しています。 
 少女は、店店の雨戸を開け閉めし、窓際に洗濯物を干し、鐘楼の時計の螺子を巻き、そして夜は縫い物などもします。孤独なので、あたかもこの街に多くの人々が住んでいるかのように装っているのです。そして毎朝学校に。
 この学校で教科書を一人開く箇所が良いですね。特に文法の教科書に好きな練習問題があるという箇所。「あなたは・・・ですか?」「あなたは・・・考えますか?」「あなたは・・・話しますか?」文法の教科書が自分に話しかけているような気がするからです。

 少女の健気さが印象的です。

 また人物描写の他に、「一体この現象は何なのか」という読者の興味を惹き付ける「謎解き」がある点も、この作品が傑作になった理由の一つでしょう。

 (ただ、ラスト「波」の話は余計ではないか)


 「まぶねの牡牛とロバ」
 イエスが生まれた馬小屋にいる雄牛とロバの話。二匹はイエスの誕生を大変喜び、また大変に気を使うのですが、雄牛は気の使い過ぎから死んでしまいます。

 主に捧げる無私の愛がテーマ。
 しかし、感傷的過ぎる気がします。


 「セーヌ川の名なし娘」
 身投げをした19歳の溺死者の娘の話。死者なんですが意識があります。彼女は川を流れて海に辿りつき、「濡れた大将」と呼ばれる青年の案内で、水底の溺死者の国に至ります。「濡れた大将」から彼女は好意を寄せられます。
 が、彼女は死後も服を着続けている事から、死者の国で次第に孤立するようになり、遂には錘を捨て、水面へと「完全な死」を求めて身投げ(身上げ?)を行うのでした。

 「疎外」「孤立」がテーマでしょうね。ただ、「沖の少女」に比べて随分と感傷的です。

 (p91)「服を着ていることを許してもらおうとして、この娘はみんなから離れて暮らしたが、その慎ましさはかえって目立ちすぎるぐらいだった。そして、子供たちや、溺死者の中でももっとも貧しい人々や、重症の不具者のために貝を採取して毎日を送っていた。人に出会うといつも自分のほうから挨拶をし、わけもなく謝ることがよくあった。」

 主人公の身投げの原因は何か主人公自身忘却しているのですが(死んでますから)、ただ「疎外感」が原因であった事は十分想像がつきます。
 また、「死者」という存在は(意識があれば、ですが)全く完全に“無力”で、周囲から“疎外”された存在です(そりゃ死んでいるからね)。
 その「死者」の国においてすら彼女は「孤立」してしまいます。

 「服を着ている事」が原因という設定ですから、「服」、つまり他者から裸(真の)の自己を隠しているのが原因という事になります。
 青春期にありがちな自意識の過剰さが孤立の原因なのではないでしょうか。
 そして、その「疎外感」「孤立感」を甘美に描いている本作は、ある種のタイプの青春期の若者に好かれる作品だと思います。

 でも、逆に言えば、そうじゃない人にとっては“甘すぎる”作品といえるのではないでしょうか。


 「天上界の恋人たち」
 これも死者達の話。天上に浮かんでいる死者達の国は、地上をそのまま引き写したような場所なのですが、死者達は何も掴む事が出来ない(または掴む物がない)実体のない影のような存在です。
 ある日、広場に実体のある本物の箱が出現します。死者達は様々な期待を胸に抱くのですが、しかし、何の変化もおきません。
 そんな死者達の中に二人の若い男女がおりました。生前、その青年は図書館でその娘に恋心を抱いたのですが、足が不自由である為、気後れして声を掛けられなかったのです(一方、娘も足が不自由の設定)。
 二人が天上界の図書館で出会うと、実体化が始まり、例の箱から天空界の地図が現れ、彼らを旅へと誘うのでした。

 この作者、実体のない人や「死者の国」という設定、好きですね(^_^)。
 “甘美な”疎外感。

 しかし、これも“甘すぎ”。類型的です(「足が不自由」っていう設定とかね)。


 「酋長ラニ」
 主人公は酋長選びの断食の儀式に打ち勝ったのですが、事故で顔に大火傷をおいます。彼は恋人からも見捨てられ、森に姿を隠します。隠れ住む中に彼は逆により醜くなる事を願い、指を噛みちぎり、村へと帰ると、恐怖に震える村人達に出て行くよう宣言するのでした。

 これも疎外感がテーマ。どうも自意識過剰が根底にあるようです。


 「バイオリンの声をした少女」
 喋るとバイオリンの音が出る少女の話(そのまんまだね)。その為彼女は常に目立ってしまいます。しかし、処女を失うと、他の娘と同じ声になったのでした。

 つまり、青春期の自意識の問題なんでしょうか。


 「競馬のつづき」
 馬と正に人馬一体の境地になった紳士の話。彼が騎手を務めている馬が興奮しレースが終わっても大暴走し、遂には彼とともに川に飛び込んでしまいます。そこで、彼の内部に馬の魂が住み着き、「馬的」な動作や欲求に突き動かされるようになります。
 しかし、彼の婚約者は動じないんですね。「馬になりたければなればいいんじゃない。無理に我慢する事はないわ」(因みにこの女性はアメリカ人という設定。拘らない所がアメリカン?)。
 彼は完全に馬に変身し、婚約者の馬車馬として過ごします。しかし、婚約者が男と、彼の曳いている馬車の中で浮気している事を聞いた彼は、暴走して二人を馬車から放り出し、殺してしまうのでした。はははは。

 この作者にしてはユーモラスな短編。


 「足あとと沼」
 舞台は南米。小間物を商う行商人を刺殺した農場主は死体を沼に投げ込み事件を隠蔽します。しかし死体が浮き上がってきて事件は発覚。
 他の作品と違って幻想味なし。

 因みに行商人はトルコ人という設定なのですが農場主から「グリンゴ」と呼ばれています(「グリンゴ」は外国人、よそ者の意で、しばしば英米人を指しますが、英米人でなくともそう呼ばれます)。

 殺す理由が「剃刀の刃が高すぎるから」という点が悲しくもまた僻地の農場のリアリズム。


 「詩抄」は省略。


 『沖の少女』は作者の初短編集だそうですが、この時の作者の年齢は47歳。う~ん。
 作品として感傷趣味が結実したんだから、ただの感傷的な人という事ではないのでしょうね(10代の少女が喜びそうな作品を10代の少女は書けない)。


 総じて、一寸私には砂糖とクリームが多かったような、そんな読後の感想(「沖の少女」だけチーズケーキだったか)。


 おまけ。
 沖の無人の街に住んでいたのが少年だったらどうだろう。設定としてそれ程可笑しくないけど、少女の方が良。
 成人女性だったら。う~ん。難ありといった所か。
 老婆。これは大いに可。寧ろこちらの方が良いとも言えるのではないか。
 老爺。変だね。
 成人男性(おっさん)。もはやギャグです。

 誰か(何か)を待ち続けて絵になる設定順位。
 老婆≧少女>少年≧世人女性>老爺>成人男性

 逆に、誰か(何か)を求めて流離う姿が様になる設定順位。
 老爺>成人男性>少年>成人女性≧少女>老婆

 上記の順番、微妙な所ですが、映画のジャンルで「旅するジジイ」ジャンルというのはありそうな気がします(『ハリーとトント』は名作映画。『水戸黄門』だってこのジャンルと言い得るか)。
 
 精子、卵子の段階からしてそうかも(^-^) 。旅するY染色体。

ありゃ、『沖の少女』という題名ではない。こっちの題名の訳の方が美しいと思うが。他『沖に住む少女』『海原の娘』『沖の娘』全部同じ。堀口大学は『沖の小娘』と訳してます。





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最終更新日  2009年07月06日 19時51分11秒
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