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2010年10月11日
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日本文化の根幹を成す「聖地としての湿原」。稲作の流れ。巫覡としての天皇。支那、印度、東南アジアの信仰交流点。

 「聖地としての湿原」という概念そのものを知っただけで十分な収穫があった本です。

 近代以前、日本は豊かな自然に恵まれ、各地に葦その他の植物が生い茂っていた肥沃な湿地が広がっていました。当然そうした環境は稲作に向いた土地でもあったのです。
 その「豊葦原の瑞穂国」と呼ばれる(葦原→湿原だ)日本の文化の根幹には、湿原を聖なる場と見なす世界観が横たわっており、それは稲作の伝播及び汎アジア的な信仰交流との密接な関係の上に成立しました。
 「湿原聖地」信仰は日本庭園や能舞台といった意外な所の成立過程にも関与しています。
 また、「湿原聖地」は神道(天皇家)の象徴体系を解く鍵ともなっています。

 
 以下、メモ。

 piii「日本の古代信仰、稲作に関して、湿原聖地は重要な意味をもつのではなかろうか」

 p17「『山の神が田を作る』とか『山の神が田の姿に化身する』という信仰はは、ひじょうに暗示深いものを秘めている。なぜなら日本では、山の神と田の神が必ずしも対立的な神格ではなく、ある種の山の神に農神的性格がみとめられていたからである。一般に『山の神は秋から冬は山に在り、春里に下って田の神となって、人々の水田耕作を助け、秋収穫が終わるとふたたび山に帰って山の神になる』というところが多く(略)」
 p18「その成立の成立には、山の湿原聖地、とくに『神の田圃』型の信仰が大いに関連しているのではなかろうか。」
 p31長野県霧ガ峯には「鬼の泉水」という池沼がある。山中で鬼が作った庭という意味で名付けたのであろう。
 山野奥深く、あたかも人が作った田圃のような状態になっている、自然状態の湿地が存在する事がありました。(当然といえば当然。葦も稲もイネ科の植物)。これを古代の日本人は「神霊が作った田圃」と見なしたのです。
 また、人為によらずに「日本庭園」のような状態になっている自然の風景が、山野に見つかる事もありました(というか、そもそも日本庭園って、西洋庭園と違い、「人為的に見えないよう、人為的に努力した庭園」だから、自然状態の風景に「日本庭園」が“発見”されちゃうって、これもまた当たり前なのである)。これもまた、「神霊が作った庭園」と見なされたようです。

 p34「以前からよく知られていた高山の『お花畑』も、『お』という美称をつけるのは、やはり『山の神の作った花畑』という認識があったからである。」
 おぉ。一口豆知識。


 p87「そのほか伝承と遺物の一致した興味深い池は、愛媛県越智矢田の蛇池で、むかし池の近くに井戸源左衛門という人が住んでおり、ある年の大旱にこの池の水を田にうまくひこうとしたが、池の蛇に妨害されて果たせなかった。そこで源左衛門が『自分の田に水をくれるのなら娘の一人をやろう』といったところ、翌日田は満水して稲は生気をとりもどしていた。源左衛門は喜ぶと同時に、大変なことになったと後悔したが、三人のうち末娘が池の主の蛇に嫁ぐ決心をして、母から一面の鏡をもらい、池に入っていった、というのである。
 昭和九年七月、この蛇池の水が旱天のためほとんど干上がったとき、池底から一面の鏡のあらわれたことを、田窪信夫氏が『考古学雑誌』三十二巻一号に報告している。」
 本当に娘さんが人身御供になった可能性大。普通、こういった伝説は何かの事実の“象徴化”と解釈されるんですが、単純に“事実”という事も多いのかも知れません。


 p95「湿原聖地は日本独自に発生・成立したのか、大陸文化の影響によるものか」  
 p96「始皇帝が、(加茂の)太田の池を大きくしたような池を、自分の宮殿の庭としてつくったことが、文献上知られているのである。」
 p103「スゲクサの湿原聖地を起源とする伏見の稲荷神社といい、カキツバタの湿原聖地にはじまった加茂の太田神社といい、いずれも華北系の帰化人と称する、秦氏の氏神であることは注目すべきであり、日本の湿原信仰は、中国の古代信仰と無関係でないことがまず想像されてくる。」
 p109「しかしながら、中国から神仙思想が入るまでに、日本にこうした思想がまったくなかったとはおもわれない。『常世の国』とよばれたものは、それ以前から日本人が考えたこの世の楽土だったのであろう。」
 p113「日本の湿原聖地が、その発生は別として中国の道教のほかに、インドのヒンズー教や仏教の影響をうけて複雑化していることも、見逃し得ないことである。」
 p116「中国の神仙思想は日本のノハナショウブ、アヤメの咲く湿原を、インドの浄土思想はヒツジグサの咲く湿原を、それぞれ聖地として認識させたが、それもその以前から、ちがったモチーフによる湿原聖地の信仰が、古代の日本に存在したからであろう。」


 p169「今日も湿原・池沼のなかやへりから、縄文時代のみならず、弥生・土師などの土器片の発見されている例も少なくなく、そのうちのいくつかは、祭祀的な遺跡であるらしい。湿原聖地は縄文時代にも存在したということは、ほぼ確実にいいうるとおもう。その遺跡が東日本にのみ発見されているのは、考古学的遺物を残したような盛んな湿原祭祀をおこなった有力な共同体が、東日本に存在したからであろう。」


 p187前方後円墳「中国の『天円』『地方』の言葉どおり、円天が天を象徴し、方形は地をあらわすという見方が妥当とおもわれる。日本の古墳は、『前方後円』『円』『前方後方』『方』の四つに大別されるが、前方部というのが祭壇的、祭儀的性格をもってはじまったとすると、結局古墳本来の種類は、円系墳と方系墳の二つにしぼられる。結果において、円系墳は後の『古事記』・『日本書紀』ほか古文献に『天神(あまつかみ)』の子孫として記されていった氏族の古墳、方系墳は『国神(くにつかみ)』の系譜をひくとされた氏族の古墳であったかと想像される。」
 古墳「円→天→天神」「方→地→国神」。判り易い。


 p193「日本の皇后のもつ田の神的性格については、すでに若干の先学の説くところであるが」(笠井昌昭『日本書紀を中心とした池の伝承について』


 p194「従来、日本本土への稲作の渡来について、その経路に確定的な定説といえるものがなく、その源を中国大陸の南部に考えることはほぼ一致しているが、途中華中・華北を経由して朝鮮半島に伝わり、さらに北九島に渡来したという説と、華南から台湾・沖縄を経て北上し、南九州に入ったという説、また華中あたりから、直接海を越えて、北九州、南朝鮮にほぼ時を同じくして伝わったという、三つの説が唱えられていた。
 そこへ最近いくつかの新しい重要な事実が判明した(略)。
 その重要な事実の一つは、弥生式土器が種子島・沖縄本島から発見されたため、弥生式土器に伴う水稲はむしろ九州から南下して、琉球列島に伝播した可能性がきわめて高くなったこと。」
 「縄文時代後晩期に、すでに九州地方で陸稲栽培がおこなわれていたらしいのである。(略)栽培技術の単純な縄文社会におこなわれやすい陸稲栽培が、水稲より先に存在していたということは、充分ありうることであろう。おそらく柳田国男氏のいう海上の道(華南→台湾→沖縄→南九州)をとおって、あるいは直接九州西岸あたりへ渡来した陸稲文化があったのであろう。柳田氏は海上の道を、水稲の道と考えたわけであるが、これを縄文期の陸稲の道と考えれば、この仮説は成立つのかもしれない。」
 「水稲の道」とは別に「陸稲の道」。


 p200「檳榔(あじまさ)は、今日『ビロウ』とよばれ、日本では沖縄地方に多いクバであって(略)」
 ?「アジマサ」も「ビンロウ」も「檳榔」の字を当てるのか(普通は「アジマサ」の方は「蒲葵」)。しかも「アジマサ」は別名「ビロウ」(≠「ビンロウ」)なのだ。あぁ、ややこしい。
 誰だ、こんな訳の判らない漢字表記と呼称を考えた奴は。


 p217「古代は彼女の家を訪れる男は、まず腰の太刀をはずして女にあずけてから同床するので、剣は女性との特殊な関係を生じたもののようで、剣をあずけるということは、結婚を意味したのであろう。」
 なんとなく、現代人でもこの“象徴的行為”判るような。


 p233熱田神宮の神宝、草薙の剣
 「すでに歴史家たちの間で、かなり知られ、問題とされてきた事実として、江戸時代に熱田の大宮司以下五人の神官が、ひそかに神宝の箱をひらいて宝剣を盗見した事件があり、その一人の松岡正直という人物によって伝えられたという剣の模様が、吉田家所蔵の『玉籤集』という書の裏書きとして残っている。
 栗田寛氏が明治三十一年にあらわした『神器考証』のなかに紹介しているので、それを要約してみると、
 一.長さ二尺七・八寸(約82~85センチ)
 二.全体に色が白かった
 三.刀先が菖蒲の葉のようであった
 四.中ほどにむっくりとした厚みがあり、本の方は六寸ばかり、節立って魚の背骨のようなところがあった。」
 物質的存在として実在したんだ、草薙の剣。しかも錆びてもいないらしい。恐るべし、神道。「ロンギヌスの槍」が代々伝わっているようなものだ。

 (その2)に続く。

湿原祭祀第2版





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最終更新日  2010年10月11日 17時13分04秒
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