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『犬の鼻先におなら』

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2011年09月28日
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(その3)の続き。

4.おとぎの国の倫理学

p73 私は自由主義を信じている。だが、自由主義者を信じていたのは、かつてバラ色の夢に包まれて生きていた無邪気な昔だけだったのだ。

p73 ごく簡単に、私の言う民主主義の原則とは何かを説明しておこう。それは二つの命題に要約できる。第一はこういうことだ。つまり、あらゆる人間に共通な物事は、ある特定の人間にしか関係のない物事よりも重要だということである。平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりもよほど非凡なのである。人間そのもののほうが個々の人間よりはるかにわれわれの畏怖を引き起こす。

p74 死そのもののほうが、餓死よりももっと悲劇的であり、ただ鼻を持っていることのほうが、巨大なカギ鼻を持っているよりもっと喜劇的なのだ。

p74 民主主義の第一原理とは要するにこういうことだ。つまり、人間にとって本質的に重要なことは、人間がみな共通に持っているものであって、人間が別々に持っていることではないという信条である。

p74 では第二の原理はどういうことか。それはつまり、政治的本能ないし欲望というものが、この、人間が共通に持つものの一つだということにほかならぬ。

p74 似ていないと言えば、たとえば教会のオルガニストになるとか、羊皮紙に細密画を描くとか、北極の探検とか(略)、こういうことはみな民主主義とは似ても似つかぬ。というそのわけは、こういうことは、うまくやってくれるのでなければ、そもそも誰かにやって貰いたいなどとは誰も思わぬからである。民主主義が似ているものはむしろ正反対で、自分で恋文を書くとか、自分で鼻をかむといったことなのだ。こういうことは、別にうまくやってくれるのでなくとも、誰でもみな自分でやって貰いたいからである。しかし、誤解しないでいただきたい。(略)そういうことが正しいとか正しくないとかいうことではないのである。

p75 つまり人間は、人間に普通の人間的な仕事があることを認めており、そして民主主義に従えば、政治もその普遍的活動の部類に入る、ということである。要するに民主主義の信条とは、もっとも重要な物事を是非とも平凡人自身に任せろというにつきる。

p75 けれども、若いころから私には一度も理解できないことが一つある。民主主義は、どういうわけか伝統と対立すると人は言う。どこからこんな考えが出てきたのか、それが私にはどうしても理解できぬのだ。伝統とは、民主主義を時間の軸に沿って昔に押し広げたものにほかならぬではないか。(略)何か孤立した記録、偶然に選ばれた記録を信用するのではなく、過去の平凡な人間共通の輿論を信用する----それが伝統のはずである。たとえば、カトリック教会の伝統に反対して、誰かドイツの歴史家の学説を採用する男がいたならば、彼の立場は厳格な貴族主義だと言わねばならぬ。なぜならそれは、大衆の畏敬すべき権威に敵対して、たった一人の専門家の権威を優越させる立場だからである。なぜ伝説のほうが歴史書より尊敬され、また尊敬されねばならぬのか。その理由は容易に理解できる。伝説はどこでも、村の正気の大衆によって作られる。ところが書物はふつう、村のたった一人の気ちがいが書くものだからである。

p76 伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。伝統は、如何なる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。

p77 平凡人の空想や偏見のほうが、非凡人の明晰明快な論証よりも私には好ましく見えて仕方がない。平凡人は人生を内側から見ているからだ。ところが非凡の人びとは人生を外側からしか見ていない。

p78 私の最初にして最後の哲学、私が一点の曇りもなく信じて疑わぬ哲学--私はそれを子供部屋で学んだ。(略)今も私が最も深く信じているものはおとぎ話なのだ。おとぎ話は、私には完全無欠に理屈にあったものに思われる。おとぎ話は空想ではない。おとぎ話に比べれば、ほかの一切のもののほうこそ空想的である。おとぎ話に比べれば、。宗教も合理主義もともにきわめて異常である。ただし、その異常ぶりには相違がある。宗教は異常に正しく、合理主義は異常にまちがっている。おとぎの国とは、陽光に輝く常識の国にほかならない。

p79 「ジャックと豆の木」の勇壮な教訓。巨人は巨大であるが故に倒さねばならぬという教訓だ。傲慢そのものに対する雄雄しい反逆である。というのも、反逆者はあらゆる王国よりも古い歴史を持ち、王朝に対する反逆は、あらゆる王朝の支持者よりも長い伝統を持つのである。(略)「美女と野獣」の教訓もある。真の愛とは、相手が愛すべきものとなるより前に愛することだという教訓である。  

p80 (世の学者先生の言う所謂「必然的で合理的な」と説明される事柄について)まるで、木が実を結ぶのも、二本と一本で三本になるのと同じように必然的だといわんばかりの話しぶりなのだ。(略)おとぎの国の基準から見れば、この二つの事実の間には途轍もないちがいがある。おとぎの国では、すべてを想像力の基準によって判断するからだ。二本と一本で木が三本にならないなどということは、とても想像することさえできはしない。けれども、木が実を結ばないということは容易に想像することができる。実がなるかわりに、金のローソク台がなったり、虎が尻尾で枝にぶらさがっていたりするというのは、十二分に想像できるのだ。

p83 おとぎの国では「法則」という言葉は使わない。(略)では、なぜ卵は鳥になり果実は秋に落ちるのか。その答えは、なぜシンデレラの鼠が馬になり、彼女のきらびやかな衣装が十二時に落ちるのか、その答えとまったく同じである。魔法だからである。「法則」ではない。われわれにはその普遍的な決まりなど理解できないからである。必然ではない。なるほど実際には必ず起きるだろうと当てにはできるが、しかし絶対に起らねばならぬという保証は全くないからである。(おやつのパンケーキに毒が入っているかも。彗星で地球が粉々になるかも)たとえその確率がどれほど小さくても、とにかくわれわれはいつでもその危険を冒して生きているのだ。(略)われわれが普段はそれを考えないで暮らしているのは、それが奇蹟であり、したがって起りえないことであるからではなく、それが奇蹟であり、したがって例外にほかならないからなのである。

p85 実は、普通の科学者というのは、厳密な意味で感傷家なのである。単なる連想にひたり、単なる連想に足許をすくわれているという意味で、彼は本質的にセンチメンタリストなのである。(略)捨てられた恋人は月を見るとどうしても失恋を連想しないわけにはゆかない。科学者が月を見て、どうしても潮を連想せざるをえないのも同じことなのである。

p86 おとぎ話のエネルギーは人間の本性に由来しているのである。

p86 おとぎ話でリンゴが金なのは、リンゴが赤いのをはじめて発見した瞬間の驚きを思い出させるためなのだ。川にブドウ酒が流れているのは、驚異の一瞬、川に水が流れていることをみずみずしく再発見させるためなのだ。

p87 この驚異には厳然として賞讃の意味が含まれている。そしてそれこそ、妖精の国の旅路に印された第二の里程標にほかならぬ。要するにこれは楽天主義の哲学であるのだ。

p88 私が経験したもっとも強大な感情は何かと言えば、人生は驚きであると同時に貴重だという感情だったのだ。それは一つの恍惚であった。なぜならそれは冒険だったからである。そしてそれが冒険であったのは、それが一つの偶然であったからだった。(略)あらゆる幸福の源は感謝である。そして私は感謝に満ちていたのである。

p88 生きていること自体が一つの驚きであった。けれどもそれは歓びの驚きだったのである。

 (p86~p88世界が存在するという驚きと喜び。ある俳人が「俳句は何を表現するのか」について語ったのと同じ事を想起した)

p89 第二原理(略)「条件的歓喜の原理」(略)おとぎの国の倫理学によれば、あらゆる美徳はすべてこの「もし」の中にある。(略)妖精はいつもこういう言い方をする----「もし<牛>という言葉さえ言わなければ、あなたは金とサファイヤの宮殿にお住みになれます。」(略)途方もない夢のようなことがみな自由になるには、たった一つの禁止の条件次第なのである。

p92 幸福は、われわれが何かをしないことにかかっている。ところがそれは、われわれがいつ何時でもやりかねないことであって、しかも、なぜそれをしてはならぬのか、その理由はよくわからないことが多いのだ。

p92 「何だって妖精の宮殿で逆立ちしてはいけないんですか。その理由を説明して下さい。」(略)「ふむ。そんなことを言うんなら、そもそもなぜ妖精の宮殿がここにあるのか、その理由をまず説明してもらおう。」

p93 私にとっては、現に生きているということ、現に世界がそこにあるということ自体が、実に途方もなく奇妙な遺産に思われて、だから、たとえ私には何から何までわからぬことだらけだとしても、その理由がわからぬと言って文句をつけるなどということは思いもよらなかったのだ。

p93 私は単にある規則がわけがわからぬという、ただそれだけの理由でその規則に抵抗する気にはなれなかった。

p96 おとぎ話は二つの確信を私にの中に植えつけていた。第一に、この世界は実に不思議な驚くべき世界であって、今とはまったく別様になっていたかもしれない世界、しかし同時に全く異様に歓びに満ちた世界だという確信。第二に、この不思議と歓びを前にしては、これほど異様な親切を示されている以上、そこにどれほど異様な制限があろうとも、われわれはすべからくその制限に謙虚に従わねばならぬという確信。

p104 おとぎの国には、本当の意味での法があった。つまり、破ることのできる法があった。というのも、法とはそもそも、破ることのできるものを意味するからである。けれども唯物論的宇宙の牢獄は、けっして破ることのできぬからくりであった。


(その5)に続く。





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最終更新日  2011年10月01日 16時17分17秒
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