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写真集。「撮影する」という人間の普遍的能力。
題名そのままです。篤志家の写真家の方が、盲学校の生徒さんたちにレンズ付きフィルムを渡して「自由に好きなものを撮ってごらん」と写真教室を開いたのが発端。大変良く撮れていたので学校内だけでなく広く世間の人々に向けた写真展を開催し、写真集も出版されました。 撮られている対象は先生、家族、飼っているペットや近所の風景。所謂、“普通”のスナップショット集です(“良い”写真と言うのは、「異常な、特異な写真」の事ではないので、これで良いと思います)。 確かに良く撮れています。散文的な意味合いでも良く撮れています。 ここで少し、ついでに散文的によしない事を。 「散文的な意味合いでも」と書きましたが、実際、被写体はちゃんとフレームの中央に収まっています。無論、そうした写真を監修者が選んで、という事もあるでしょうが、元が27枚しか撮れないレンズ付きフィルムなので、恐らくほぼ全ての写真がきちんと撮れているのでしょう。 被写体が人間の場合、「相手の声を頼りに」という事でしょうが(実際、写真に添えられた撮影者のコメントにそのような記述あり)、風景や動物、植物、無機物の場合、何故、ちゃんと撮れるのか。 これは、私の妄説なのですが、実は写真というものは“全身”で撮っているのではないか(文学的な意味合いに非ず。即物的な意味合いなり)。 つまり対象物との距離、角度、位置関係諸々を、健常者は視覚がある故に、「視覚のみ」から情報を得ていると思いがちですが、実は、全身から情報を得ている。 例えば、この写真集にも掲載されている、駅の長い渡り廊下や銀杏の並木道、通学路の写真などの場合、実際そこを歩く事により生じる運動の感覚から角度や方向を出しているのではないか。 (尤も生徒さん達の障碍の度合いは判らないので、「やっぱり視覚」という事も考えられます) まぁ、やはりここは巻頭で管洋志氏が述べている言葉を挙げたいと思います。 「みんなが撮った2Lサイズのカラープリントを、何度も何度も見返した。何故撮れるんだろう。なんでこのタイミングがわかるんだろう。きっと心の奥底で見えているに違いない。『たとえ視覚を閉ざされていようとも、写真は心で撮れるんだ』」 (こっちの方がずっと綺麗な表現) 聞いた事のある地名が多々見られるので、どこかで生徒さん達とすれ違っているかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年12月08日 20時08分01秒
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