滑稽家としての子規
正岡子規が滑稽家としての面目を遺憾なく発揮したのはその臨終の場面だった。子規は明治35年9月19日未明になくなる。その前日18日の朝、河東碧梧桐は容態悪化の知らせを受けて子規の根岸の家に駆けつけた。午前11時頃、子規は寝たまま画板を妹の律に支えさせ、自分は左手でその下を持ち、板に貼った唐紙に絶筆となる糸瓜の三句を墨で書いた。その場に居合わせて絶筆の介添え役を果たすことになった碧梧桐の回想「君が絶筆」によると、子規はまずいきなり紙の真ん中に、 糸瓜咲いてと書きつけたが、「咲いて」の三字がかすれて書きにくそうだったので、碧梧桐が墨をついで筆を渡すと、子規は少し下げて 痰のつまりしまで書いた。碧梧桐は「次は何と出るかと、暗に好奇心に駆られて板面を注視して居る」。すると、子規は同じくらいの高さに 仏かなと書いたので、碧梧桐は「覚えず胸を刺されるように感じた」。ここで子規は投げるように筆を置いた。咳をして痰をとる。やがて画板を引き寄せて筆をとると、「糸瓜咲いて」の句の左に、 痰一斗糸瓜の水も間にあはずと書いて筆を置くと、またしばらく休んで今度は右の余白に、 をととひのへちまの水も取らざりきと書いた。子規は筆を置くことさえ大儀そうに持ったままでいる。穂先がシーツに落ちて墨の痕がついた。この三句をしたためてから十四時間後に子規はなくなる。明治の文人らしい壮絶な最期だった。この絶筆三句も従来は悲劇的側面のみが強調されてきたきらいがある。しかし、よくよく眺めてみると、どれもおかしな句である。とくに最初の「糸瓜咲いて」の句は糸瓜の花かげで今にも絶命しようとしている自分自身を「痰のつまりし仏」などと笑っている。そこには病苦にあえぐ自分自身をただの物体であるかのように冷静に眺め、しかもそれを戯画にしておかしがってる筋金入りの滑稽の精神が存在している。二句目、三句目にある「糸瓜の水」とは糸瓜の蔓を切って根につながっている方の切り口を一升瓶などに挿しこんでおくと一夜にして水が溜まる。この糸瓜の揚げる水が「糸瓜の水」であり、古来、痰切りの薬とされてきた。「痰一斗」も「をととひの」の句も妙薬の糸瓜の水も甲斐なく、こうして自分はあっけなく死んでゆくと言っている。この二句にも糸瓜の水さながらにさらりとした滑稽の精神が働いている。それまでは身辺のものに向けられていた子規の旺盛な滑稽の精神はいよいよ自分が臨終を迎えたとき、子規自身に向けられることになった。そうして詠まれた絶筆三句は子規という滑稽家の最期の燃焼だった。臨終の子規にとって人生は一幕の笑劇にほかならなかった。(長谷川櫂「俳句的生活」)