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雀坊の納戸~文鳥動向の備忘録~

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2017年03月10日
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 例の小学校設立を目論んだ幼稚園の経営者により、『教育勅語』がクローズアップされています。これは、明治時代の半ばに天皇のお言葉として、国民に伝えられたもので、戦前の学校教育では欠かせないものでした。しかし、私は魅力を感じたことがありません。なぜなら、今現在では前提が崩壊している過去の遺物でしかないからです。

 しかし、『教育勅語』を現代の教育に生かしたいと考える人もいます。例えば稲田防衛大臣は「教育勅語の精神である親孝行など、核の部分は取り戻すべきだと考えており、道義国家を目指すべきだという考えに変わりはない」と、先日国会で答弁されています(8日NHK)。しかし、これは誤解ではないでしょうか。少なくとも、親孝行は教育勅語の核と見なすのは無理です。
 『教育勅語』は、あくまでも「皇運ヲ扶翼スヘシ」、つまり大日本帝国の絶対君主としての天皇陛下の役に立つ人材たれ、と諭すのが核心です。それを「元気に素直に育ちましょう!」的な時代性のない人としての一般論を主眼とする文章としてのみ読んでしまえば、『教育勅語』の時代的な意味合いを理解せず、本質からズレた寝とぼけた話になってしまうかと思います。

 ともあれ、『教育勅語』の核となる部分を読んでみましょう(原文は漢字かな混じり文。知ったかぶりして書いていますが、もちろん私は暗唱できません)。

 「なんじ臣民、父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹おのれを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め、業を習い、もって智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、世務啓き、常に国憲を重んじ、国法に遵い、一旦緩急あれば義勇公に奉じ、もって天壌無窮の皇運を扶翼すべし

 「天壌無窮の皇運」と大仰に言われてもピンときませんが、永遠に続く天皇を戴く大日本帝国の運命といった意味で、いわゆる左翼系統の思想の人には癇に障るところかと思います。しかし、帝国主義で各国がしのぎを削って植民地獲得競争をしていたような当時は、それがグローバルスタンダードでしたから、昔のことを今の基準で腹を立てても仕方がないかと思います。そういった時代背景のもとで生み出され、継承されていた文章だ、との時代性を認識しないといけません。
 一方、稲田さんたちは、ここにある「父母に孝」を、「お父さんお母さんを大切にしよう!」との普遍的道徳観としてのみ理解しようと心がけていらっしゃるようです。つまり、時代による違いを無視した一般論とされているのですが、この文章の結論は「もって天壌無窮の皇運を扶翼すべし」に他なりませんから、天皇=国家への忠義を求める意味合いを含んでいると読み取るべきでしょう。
 何しろ、自分が自分の親を大切にするといった、今現在の道徳観に基づく親孝行と、儒学、孔子の説く「仁」の実践としての「孝悌」とは、少しニュアンスが異なります。孔子のそれは、親に孝、兄に悌、つまり近親の年長者(の男)に従うべし、との家庭内での秩序論となります。孔子が悪いわけではありませんが、男女平等の現代とは違った時代性を持っている考え方と言えるかと思います。さらに、当時の大日本帝国では、「国体」の秩序を維持するために、家庭内秩序の『孝』の考え方が援用されます。日本という国家を大きな家と見なした時、親とすべきは天皇陛下となり、天皇陛下の赤子(せきし、赤ん坊)にして臣民であるところの大日本帝国国民は、親である陛下に従うべし、とする道徳を形成し、それを共通認識とするのが時代的前提(=その時代における情緒)となっていたのです。
 儒学が教育の基礎とされ、知識人は当然その素養のあった時代と、そのようなもの私のように欠片もない見るも無残な体たらくの現代とは、同じ言葉でも受け止め方は異なってしまいます。今現在、『教育勅語』が存在した時代性、いわば『皇国の情緒』は存在しないので、その時代の文章を引っ張り出して、うわべをひっかいても勝手な現代的解釈にしかならないと思います。また、本質部分を抜きにしては、歴史的な意味合いを『教育勅語』から奪い去ることにもなるでしょう。親孝行を勧めるのに、わざわざ『教育勅語』を持ち出して誤解を招くことはない、でしょうね。
 それでもどうしても『教育勅語』にある言葉を現代の日本人の道徳教育に生かしたいなら、「お父さんお母さんを大切にしよう!」より、「恭倹おのれを持し」をお勧めしたいです。もちろん「恭倹」も孔子の人となりを表す言葉として有名ですから(「温良恭倹譲」)、純日本調ではありませんが(そもそも漢文で「やまとことば」ではないのです。何しろ「勅語」ですから、オール漢字です)、恭倹=「人に対してはうやうやしく、自分自身は慎み深く振る舞う」(デジタル大辞泉)とは、いかにも慎み深い日本人的美徳を示す言葉のように私には思えます。その美徳を持つべく自分自身で気を付けて行動するとは、日本人以外では難しい気もするくらいです。

 「恭倹おのれを持し」てイジメちゃだめよ!と繰り返し繰り返しさとしていれば、幼稚園の道徳はそれで十分かもしれませんね。
 となれば、それを暗唱させていた意味もありそうですが・・・。園児にそれを強制して暗唱させていた人の態度を見るにつけ、「人に対してはうやうやしく、自分自身は慎み深く振る舞う」とは程遠いどころか真逆にしか見えず、がっかりです。教える側のご自分が実践されてこそ、「博愛衆に及ぼし」で、実に立派な教育者と見なされ、さすが『教育勅語』を体現される方は違うと、その「徳器を成就」された姿は、尊敬の的になったでしょうに(今の陛下の立ち居振る舞いを真似られたらいかがでしょう?)。

 保守を自称する人の中には、戦前、特に明治期の制度などを尊重される方が多いように思います。そして、先ごろの陛下のご譲位についての「有識者」たちの意見では、そうした人たちの本質が見えたように思えたものでした。しかし、平成の御代に『皇国の情緒』は存在しないので、明治の時代性を尺度にして是非を測るのは不可能で、平成の情緒の中に生きる現代の日本人の大勢からは浮き上がってしまうように思われます。結局、情緒的な「脳内明治」の懐古趣味と見なされるだけで、現実にそぐわないのです。
 保守=時代を無視した懐古趣味とならないように、『教育勅語』などの歴史的な事物に、情緒的な共鳴をよせるだけで実践を伴わず、格好つけの手段として過去を利用していると見なされないように、現実世界をしっかり踏まえた現実的な考え方を心掛けたいところです。





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Last updated  2017年03月11日 11時05分09秒
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