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雀坊の納戸~文鳥動向の備忘録~

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2017年05月03日
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 石原慎太郎元東京都知事が、無意味な百条委員会に引き出され、公開の場で聴取を受けてから、二か月も経たない。その場において、慎太郎さんは、冒頭に「2年前に脳梗塞を患いまして、いまだに、その後遺症に悩んでおります」とされ、「全ての字を忘れました。平仮名さえも忘れました」とまで仰っている。
 そのような方に、まともな現役世代の人間が意見を求めては、酔狂に過ぎるとそしられよう。もちろん、ご本人は尋ねられればお答えになられるだろうが、それは、若くして頭脳明晰であった過去の自分の印象を崩壊させる、つまりは晩節を汚す危険を冒すだけにもなる。もし、真にその人のことを思う気持ちがあれば、昔のままなのは名前だけの人に意見を求めるようなことは、厳に控えねばならない。
 ところが、憲法記念日の本日、忘れたひらがなも用いた文章が、愛読するいちおう全国紙(産経新聞)の一面に載せられていたので、驚かされた(コチラ)。もちろん、目新しいご意見は何一つない。何度も言ったり書いたりされているのを、聞かされたり読まされたりしている内容だ。しかし、せっかくの憲法記念日なので、繰り返して飽きないご老体の持論の一つ、憲法における助詞の「誤訳」について、飽き飽きうんざりしきっている現役世代の一人として、批判したいと思う。
 本日の一面コラムでは、「日本語による為政者への統制批判を封じるものの象徴的存在は、間違った日本語で綴られた前文に始まる憲法に他なら」ず、(起草者が日本人ではないので)「憲法の前文には明らかに慣用の日本語としては間違いの助詞が数多くある」として、さらに「アメリカ人が英語で即製して日本語に翻訳した憲法にはわれわれが日常使う日本語としてはなりたたないような助詞の誤訳が随所にある」とたたみかけた上で、御自身が国会で取り上げたことのある有名な指摘を繰り返されている。いわく、「「公正と信義に信頼して」の一行の助詞の『に』だがこれは日本語としての慣用からすればあくまで『を』でなくてはならず誰かに高額の金を貸す時に君に信頼して貸そうとは言わず君を信頼してのはずだろう」
 しかし、これは難癖に近く、為にする議論で空疎とさえ言える。現憲法が、日本国民の意思で承認されたものではないので、変えるにせよ変えないにせよ一部修正するにせよ、主権者である日本国民が自ら決定すべきなのは当然だが、その議論に助詞うんぬんはそもそも無意味なのである。その程度、それが無理筋な詭弁に過ぎない程度のことは、慎太郎さんご自身もお分かりになっていればこそ、「慣用の」「慣用からすれば」「日常使う」と、逃げ道を作られているのではなかろうか。つまり、非日常の日本語では、「に信頼する」は使用されるのである。
 日本国の基本法典が日常の口語体で綴られていれば、漢字ばかりの慎太郎さんの文章など絶対読まないライトノベル層も喜ぶだろう(文体はともかく、『太陽の季節』の内容はライトノベルチックなはず・・・、あらすじしか知らないので詳しく評せないのだが)。「公正と信義に信頼して」の「に」は国語的には誤りではない。第一、法令などは文語体、より本質的には律令の昔から、漢文訓読の形式をとるのが普通で、その際は日本語の自在性を生かして助詞を多様に補い、日本語の読みとして平仄合わせ、正確に言えば耳障りの良さを整えるものである。
 実際、漢文的思考が濃厚だった時代(第二次世界大戦に敗れる前)の日本語表現では、「に信頼して」は、ごく普通の用法で、例えば太平洋戦争開戦時の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)にも「忠誠勇武ニ信倚シ」とある。文士、作家に対して釈迦に説法になってしまうが、念のため言えば「信倚(しんい)」は信頼の同義語である。このように天皇陛下もご使用になられる「に信頼して」を、日本語として正当でないと主張すれば、、無知の所産、と指摘されるのを覚悟しなければなるまい。慎太郎さんは、英文学者の福田恆存が同じ考え方だったと、たびたびたびたびたびたび仰っているが、それが事実なら、誰であれ間違いである。
 第一、福田恆存ともあろう人が、開戦の詔勅も知らず「に信頼して」が漢文訓読調の日本語として定着していたことも理解していないとは、およそ考えにくい。福田は、日本国憲法の文章を評価しないどころか、徹底的に非難しているのは確かだが、「に」でなくて「を」だ、といった区々たる文法について指摘している文章は寡聞にして知らない。日本人が自発的に編んだものではなく、勝者アメリカから拝領したもの以外の何物でもないため、自主性が文章の行間に現れず、あくまで受動的な姿勢が憲法全体の各条文の端々に見受けられるので、許せないと感じていたものと思われる。さらに、白洲次郎の名も挙げられているが、白洲の場合も、成立の過程からして自主憲法でないことを深刻な問題としているが、憲法の中身を否定してはいない。慎太郎さんのように伝聞情報で良ければ、「押しつけられたから腹は立つが良い所もある」と、白洲は現憲法を評している(記事)。
 主権在民を謳う憲法が、国民不在の元で作成され、国民投票を経ることも無いとなれば、それは主権者に承認されたものと言えようか。これが保守的思考の人々が持つ問題の核心かと思う。国民の承認を受けるための方便として、「に」を「を」に改めるだけの修正で発議してはどうか、との方法論は有り得るが、本気で日本語として誤りと信じるようになってしまっては、およそ見当外れと言わねばならない。そして、現在の情報化社会にあっては、そのような国民を「拠らしむべし知らしむべからず」な存在として誑かすがごとき奇策は、開戦の詔勅が日本語として間違っていると指摘するに等しい詭弁だと、すぐに見破られてしまうだけに相違あるまい。福田恆存の時代とは違うのである。
 繰り返すが、慎太郎さんを愛する人もそうでない人も、引き出すご自分たちの不見識をさらすだけなので、意見聴取を、いい加減にお控えいただきたい。





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Last updated  2017年05月03日 17時54分04秒
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