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2020.05.04
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カテゴリ:60歴史

わたしの好きな歴史のTV番組にNHKの「英雄たちの選択」があります。最近では、民放の歴史番組がなくなってちょっと寂しさがありますね。

先日422日に「英雄たちの選択」で放映されたのは「スカウトされた大王~地方出身!継体天皇の実像」ということでした。皇室の系譜もこの継体天皇からつながっていますので、その意味では大変重要な位置づけの天皇となります。

 

<特に知りたい3世紀から7世紀初頭まで>

特に、興味がある時代のひとつは「邪馬台国~飛鳥時代」までですが、その中でも、邪馬台国以降の4世紀中ごろの「ヤマト王権」成立までが全くの白紙状態(ブラックボックス)になっています。政治の中心も「北九州地方から。大和(奈良など畿内)地方」移っています。よほど、ダイナミックな移動または変化があったと考えないと理解が難しい時代です。

整理をしていて「ぱっと」気がついたことがありました。それは、歴史に現れた「委(わ)奴国」→「倭国の大乱」→「邪馬台国」→「倭の五王」→「ヤマト王権」→「大和朝廷」→「飛鳥時代」・・・とつながっていきますが、「倭」という国名が「倭の五王」までつながっていることです。「倭の五王」を大和朝廷に含めるか、「倭」に含めるのかによって歴史は随分違ったものになりそうです。

 

(出典:巨大古墳と古代天皇陵の謎)

 

<歴史を遡ってみますと>

AD57 倭の奴国の王が後漢洪武帝に朝貢し、「印綬」を受ける(後漢書東夷伝)

(出典:日本史図説東京書籍)
107 倭国王帥升、後漢安帝に生口100人を献じる(後漢書安帝紀)
184 倭国の大乱(小国間で争いが激化)
189年前後 卑弥呼邪馬台国の王になり戦乱静まる(「魏志」倭人伝)


(出典:日本史図説東京書籍)


239 卑弥呼、魏の明帝から「親魏倭王」の称号と金印・銅鏡を与えられる
         (「魏志」倭人伝)
           ※卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 242年~248年)
         □□□卑弥呼死す、男王がたつが国内混乱、壱与が女王に(「魏志」倭人伝)
266 倭の女王が晋に遣使(「晋書」武帝紀)
※この間が、不明の時代です。邪馬台国からヤマト政権までの空白期間です

4世紀中ごろ、ヤマト王権(政権)成立
391 倭軍、百済・新羅を破る(高句麗好太王碑文)




400 高句麗の攻撃により倭軍、新羅より撤退(好太王碑文)
404
 倭軍、帯方郡に出兵、高句麗と戦い敗北(好太王碑文)
413 倭王讃、東晋に貢物を献上(「晋書」)
421 讃、宋に朝貢、宋の武帝から称号を受ける(「宋書」)
425 讃、司馬曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献上(「宋書」)
438 倭王珍、宋に朝貢、安東将軍倭国王とされる(「宋書」)
443 倭王済、宋に朝貢、安東将軍倭国王とされる(「宋書」)
451 済、宋より六国諸軍事などの号を加授される(「宋書」)
462 倭王興、宋に朝貢、安東将軍倭国王とされる(「宋書」)
463 吉備田狭の乱、任那国司吉備、百済で反乱(「書紀」)
478 倭王武、宋に上奏文、安東大将軍倭王の号授かる(「宋書」)




479
 武、南斉の高帝から鎮東大将軍の号授かる(「南斉書」)
502 武、梁から征東将軍の号授かる(「梁書」)
507 大伴金村、男大迹王(をほどのおおきみ)を迎え、継体天皇とする「書紀」
512 金村、百済の要請により任那(加羅)4県を割譲(「書紀」)



527
 磐井の反乱、任那に向かう朝廷軍(近江臣毛野軍)阻止
528 物部麁鹿火が磐井の乱を平定
529 近江臣毛野軍、任那救援に失敗
531 欽明天皇即位(上宮聖徳法王帝説)「書紀」では539
532 任那の金官国、新羅に服属
537 大伴磐・大伴連狭手彦、任那救援に向かう
540 金村、任那問題で失脚
554 倭・百済両軍、新羅と戦う、佐伯連、百済救援へ、百済聖明王戦
562 任那の官家、新羅に滅ぼされる
572 蘇我馬子は大臣、物部守屋は大連になる
587 馬子、聖徳太子らと守屋を滅ぼす
582 馬子、東漢直駒をして崇峻天皇を殺害、推古天皇即位
593 聖徳太子、推古天皇の摂政となる「太子・馬子の共同統治」
594 三法(仏法)興隆の詔
600 新羅、任那と戦う、倭王隋に遣使「遣隋使の始め」
601 聖徳太子、斑鳩宮造る
603 小墾田宮に移る、冠位十二階を制定
604 始めて冠位を賜う、憲法十七条の制定
607 小野妹子を隋に派遣

・・・
622 聖徳太子、斑鳩宮で没

 

<自分なりに整理してみると・・・>

〇はじめての統一的な国は「邪馬台国」か、以前は各地の豪族の存在があり、統一的な国といっても「連合的」国家。

3世紀後半卑弥呼後の女王「壱与」後、4世紀末の高句麗「好太王碑文」の125年が全くの空白(仁徳天皇治世か)この時代に、ヤマト王権の成立がみられ、畿内が政治の中心になっている。このヤマト王権が飛鳥時代へとつながっていく。この空白の時代に日本は未曽有の「政治的・軍事的未曽有の大変革」がみられたはず。

〇こう眺めてみると、日本の歴史は5世紀半ばまで中国の歴史書での記載による歴史である。(但し、266年~413年、中国の文献から倭の記述が消えてしまう)。5世紀初頭から6世紀初頭まで倭の五王の時代になり、中国との朝貢がみられる。

〇日本の歴史が明らかになるのは592年以降(飛鳥時代)、歴史書としては、「日本書紀」(720年)に完成が作成されてはじめて、日本に伝存する最古の正史が編纂され、現在に至っている。

〇倭の五王以降は「日本書紀」での歴史書に記載されている。特に、「継体天皇即位」からかなり具体的な歴史の記述がみられるようになった。

6世紀末から蘇我馬子、聖徳太子の登場がみられ、飛鳥時代へつながっていく

〇大王を中心とする「豪族による連合国家か」ら「天皇による中央集権国家」へ

〇天皇の外戚として「葛城」→「蘇我」→「藤原(中臣)」へ


<天皇の系図>



歴史的には、仁徳天皇陵、倭の五王、継体天皇などの史実は見られるが、他にはあまり目に触れたことはありません。

 

<過去のTV番組>※わたしが、録画したもの



2012年から個人的な趣味で特に、弥生時代、古墳時代の番組を録画してきました。今振り返ると、ほとんどが邪馬台国がらみのものが多く、3世紀の中ごろからの番組はわずかなものであった。



~あとがき~

 

「歴史」は興味がつきません。古代は、縄文時代、弥生時代、古墳時代と続いてきますが、特に、邪馬台国から飛鳥時代までの時代はまさに日本の歴史の曙のような気がします。その中でも「邪馬台国の卑弥呼」が亡くなってからの4世紀末の高句麗「好太王碑文」までの125年が全くの空白(仁徳天皇治世か)の時代になっています。この時代は先日「世界文化遺産 構成資産世界遺産」大山古墳に埋葬されている「仁徳天皇」の治世だと言われています(諸説あるかもしれませんが)。その意味では実在の天皇だと思いますが、その後の「倭の五王」につながり、武烈天皇後の継体天皇からその後の天皇の系図につながっております。分からないこともたくさんあるのですが、昨今の歴史的な発見も続いており、この空白の時代への解明につながるものを期待しています。以上









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最終更新日  2020.05.04 09:54:46
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