鴎座俳句会&松田ひろむの広場

2020/02/14(金)07:51

句集探訪1『寺田京子全句集』その2 松田ひろむ

句集(37)

句集探訪1『寺田京子全句集』その2 松田ひろむ 樹氷林男追うには呼吸足りぬ‐第二句集『日の鷹』                   第二句集『日の鷹』は彼女が小康を取り戻した時期である。『寺田京子全句集』の江中真弓の解題を抽く。   第二句集『日の鷹』 昭和四十二年七月二十日、雪櫟書房より刊行。B6判。一九二べージ。一ぺージ二句組。函人。昭和三十二年から昭和四十二年までの作品三四九句を収める(本句集以降、 表記は現代仮名遣による)。題簽、加藤楸邨。装幀、直木久蓉。定価五〇〇円。 寺田京子がもっとも充実し、輝きを放ったのは昭和四十年代である。健康を回復し、放送作家、俳句講師、新聞の選者などとしても大いに活躍し、新鮮で密度の高い、独自の世界を拓いた。死への不安を負いながら、激しく強烈な生への意思に満ちた気魄の句集で、俳壇の話題となった。序も跋もなく、短い「後記」だけというところに、作品一本にかけた覚悟が窺われる。 本句集所収の「日の鷹」五十句(昭和四十年から四十二年までの作品、代表句〈日の鷹がとぶ骨片となるまで飛ぶ〉を含む)により、第十五回・昭和四十三年度現代俳句協会賞を受賞する。 生活の日常と優れた表現力、知性、才能、意志とが相まった寺田京子の原点となった句集といえよう。  樹氷林男追うには呼吸足りぬ  寺田京子の代表句である。「呼吸」はここでは「いき」と読む。樹氷は蔵王高原のそれが有名であるが、これは雪の坊(スノーモンスター)と呼ばれる人形(ひとがた)のもので樹氷林とは異なる。 この句は札幌近郷あるいは公園の樹氷林であろう。「樹氷」と「樹氷林」の違いを見ておきたい。  季語としての「樹氷」は『新選袖珍俳句季寄せ』(一九一三年、大正二年)が初出。信州では「樹華」(きばな)と呼ぶ。〈樹華碧く雪飯綱のたたずまひ〉角川源義(『図説俳句大歳時記』角川書店) 「樹氷林」はさらに新しい。先行するのはおそらく〈樹氷林むらさき湧きて日闌けたり〉(石橋辰之助)、〈樹氷林ホテルのけぶり纒きて澄む〉(橋本多佳子)ぐらいであろう。 『日の鷹』には〈樹氷林咳をするとき身のひかり〉もある。札幌在住の彼女にとって樹氷林は身近なものだっただろう。ここもで「咳」であって「呼吸」と共通する。 句は「男追う」がポイント。この男は一般的な男ではなく、彼女には好きな男性がいたのであろう。具体的に追っかけるのではなく、心理的なものである。 切ない句であるが、ある意味「男追う」の大胆な表現が衝撃的であった。 「樹氷」とは、主として地表付近の気温が〇℃以下になったとき,樹木や地物の表面に大気中の水蒸気が直接昇華したり、また過冷却雲粒が付着し凍結してできた氷を総称して霧氷というが,氷のでき方によって、樹霜,樹氷,粗氷の三種に分けられる。樹氷は過冷却雲粒が冷たい樹木や地物につぎつぎに衝突し、瞬間的に凍り、たくさんの氷の粒からなる白色不透明の氷で,霰のでき方と同じと考えてよい。一般に根元が細く扇形のもろい氷なのでその形から〈えびのしっぽ〉などとよばれることもある。soft rime(『世界大百科事典』)、蔵王の「樹氷」という言葉自体一九二〇年代前半に蔵王高原でスキー合宿を行っていた第二高等学校 (旧制)と東北帝国大学の学生らが「雪の坊」を巨大な「樹氷」と勘違いして呼んだことが発祥であるという。(『実用日本語表現辞典』・ウイキペディア)   凧とぶや僧きて父を失いき   僧が来て改めて父を失ったという現実を確かめているかのようである。「凧とぶ」は春の季語だがここでは新年であろう。お正月に浮かれている子供たちの声が聞こえてくるのである。そしてわが家では僧の読経が始まるのである。明暗のはっきりした句で、これは俳句の基本である。 清水哲男は春の「凧」と「正月の凧」を分けて「何か大きな行事のためなのだろう。よく晴れた空には「凧」が悠々と天上に舞い上がっており、世間は全て世は事も無しの風情である。」とするが、これは解釈が違っている。「凧」は新年のもので旧暦では正月は春だったのだ。 生の代表としての子供の凧と父の死である。   季語は「凧」で春。子供たちは正月に揚げるが、これには「正月の凧」という季語が当てられる。単に「凧」という場合には、各地の年中行事で主に大人の揚げるものを指すのが一般的だ。作者は札幌生まれ。十七歳のときに胸部疾患罹病、宿痾となる。「少女期より病みし顔映え冬の匙」、「未婚一生洗ひし足袋が合掌す」。しかも、より不幸なことには、杖とも柱とも頼んだ母親が早世してしまい、父親との二人暮らしの日々を余儀なくされたのだった。「雪降ればすぐに雪掻き妻なき父」。その父親が亡くなったときの句だ。このような事情を知らなくても、掲句には胸打たれる。 順序としては、亡くなった人がいるから「僧」が来る。しかし、句では逆の言い方になっている。「僧」が来てから、「父」を失ったことに……。この逆順が示しているのは、あくまでも父親を失ったことを認めたくない心情である。認めたくない、夢ならば醒めてほしいと願う心は、しかし僧侶が訪れてきたことによって、無惨にも打ち砕かれてしまったのだ。父の死を現実として受け止めざるを得ない。ああ、父は本当にいなくなってしまったのだ。と、作者は呆然としている。折から、何か大きな行事のためなのだろう。よく晴れた空には「凧」が悠々と天上に舞い上がっており、世間は全て世は事も無しの風情である。作者は、いつまでも空「とぶ」凧を慟哭の思いで、しかもいわば半睡半覚の思いで見つめていたことだろう。父の非在と凧の実在。この取り合わせによる近代的抒情性が、見事に定着結晶した名句である。なお、作者は一九七六年に五十四歳で他界した。「林檎甘し八十婆まで生きること」。(清水哲男「増殖する俳句歳時記」March 0732004)   噴水や戦後の男指やさし        俳句は自然を読むものか、人間を詠むものか。その寺田京子の答えは男であり、人間である。父の句も多く男の句も多い。 京子の父の指はどのような指だったのだろうか。指というよりも手であろうか。「男の手は履歴書」という言葉があったように記憶していたが、この原稿を書くにあたって改めてネット検索してみたが、見つからなかった。なければ私の言葉として「男の手は履歴書」といっておこう。男という限定はなくてもいい。「手は履歴書」である。 私自身の手を見るとまさに事務労働者の手である。かつて一代で会社を興して成功した社長とお付き合いしたことがあったが、その彼の手はごつごつとした肉体労働者の手そのものだった。 京子の句の男の「やさしい指の男では物足りなかったのではないだろうか。おそらくそれに対比される男は父である。清水哲男は「(京子は)男の指がやさしく写ることに否定的ではなく、ほっと安堵しているような気配がうかがえる。」というがそうだろうか。 その清水哲男の鑑賞をあげる。               季語は「噴水」で夏。連れ立っていた「男」が、たまたま噴水に手をかざしたのだろう。ああいうものにちょっと手を触れてみたくなる幼児性は、どうも男のほうが強いらしい。それはともかく、作者はその人の「指」を見て、ずいぶんと「やさし」い感じを受けたのだった。そういえば、この人ばかりではなく、総じて「戦後の男」の指はやさしくなったとも……。男の指を通して、戦後社会のありようの一断面をさりげなく描いた佳句だ。男の指がやさしくなったのは、もちろん農作業など戸外での労働をしなくなったことによる。一九五〇年代の作と思われるが、当時は「青白きインテリ」という流行語もあったりして、多くの男たちにはまだ「指やさし」の身を恥じる気持ちが強かった。たしか詩人の小野十三郎の自伝にも、自分の白くてやさしい感じの手にコンプレックスを持っていたという記述があったような気がする。ごつごつと節くれ立った指を持ってこそ、男らしい男とされたのは、肉体労働の神聖視につながるが、しかしこれはあくまでも昔の権力者に都合の良い言い草であるにすぎない。句はそこまでは言ってはいないけれど、男の指がやさしく写ることに否定的ではなく、ほっと安堵しているような気配がうかがえる。苛烈な戦争の時代を通り抜けた一女性ならではの、それこそやさしいまなざしが詠ませた句だと思う。(清水哲男「増殖する俳句歳時記」May 2352005 )   日の鷹がとぶ骨片となるまで飛ぶ 明るい晴れた冬空に鷹が高く飛んでいる。日の光の中の鷹でそれが「日の鷹」と省略されている。その鷹は、はるかはるかに高い目標を目指している。つまりは作者の高いこころざう、意志の表現であると思える。 この句は「骨片となるまで」がキーワード。「骨片」とは、高く飛んで見えなくなる状態、紙飛行機でいう「視界没」のことだろうか。いや、死んで骨となることだろうか。作者の境涯を考えるとやはり死であろう。骨片となるまで私は飛んで行くのだ。なお鷹は冬の季語。北海道の冬の厳しさのなかの鷹の姿であろう。日と骨という明暗はここでも明快である。 栗林浩は次のように読む。   飽くなき生への執念のように切なく聞える。この句をはじめて知ったとき、私には佐藤鬼房の〈切株があり愚直の斧があり〉と重なった。定型の美しさを返上し、句跨りを一気に詠いあげることで、こころの底からのひたむきさを言い得ている。鷹も斧も自分自身であろう。「とぶー飛ぶ」のリフレインは「ありーあり」のそれに通じている。(栗林浩のブログ)   確かにリフレインの「飛ぶ」が効いている。心を打つ句は内容だけでなく形式も新鮮であるという好例であろう。 ただし鷹はこの句も場合も象徴としての「鷹」であって、鷹が意味もなく「骨片」となるまで高く飛ぶことはない。 鷹はその優れた飛翔力や、鋭い嘴・爪による攻撃力など、精悍なイメージがあるため、古来より強さ・速さ・権力・高貴さの象徴となっている。鷹は鳥類の生態系の頂点に位置しているため、天敵は人間以外にはいない。 鷹の種類は多くその生態は一様ではない。鷹の餌は他の鳥類では鴉、鴨、椋鳥、鶉・鶏・鳩・雀など、小動物では鼠・兎などである。 鷹が飛ぶのは餌を求めているわけに、一定の高度以上に高く飛ぶことはない。トビ(鳶)も鷹の一種で低空を旋回して餌を探している。オオタカなどは高く飛ばないで樹上から滑空して横から襲撃をする。 渡りをするサシバ、ハチクマは高く飛翔するが、北海道には来ない。ハチクマ(鉢熊)の名は蜂を主食とするところから。 サシバ(差羽、刺羽、鸇)の秋の渡りは九月初めに始まり、渡りの時には非常に大きな群れを作る。渥美半島の伊良湖岬、鹿児島県の佐多岬、沖縄県宮古列島の伊良部島ではサシバの大規模な渡りを見ることができる。なお春の渡りの際には秋ほど大規模な群れは作らない。したがって「鷹渡る」は秋の季語。 芭蕉の〈鷹一つみつけてうれし伊良湖崎〉の鷹は、サシバであろう、また愛弟子、杜国でもある。 「笈の小文」では貞亨四年(一六八七年)十一月十二日である。   保美村より伊良古崎へ壱里計も有べし。三河の國の地つヾきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に撰入れられたり。此渕(州)崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は鷹を打處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし   鷹一つ見付てうれしいらご崎   杜国の侘び住まいを訪問した翌日、芭蕉・越人・杜国は連れだって伊良子岬に馬で出かけた。ここで芭蕉は、〈伊良子崎似るものもなし鷹の声〉、〈夢よりも現の鷹ぞたのもしき〉と詠んでいる。愛弟子杜国との再会を喜び明るい。ここでも鷹は象徴として詠まれている。   〈日の鷹がとぶ骨片となるまで飛ぶ〉の句は一九八三年(昭和五十八年)六月建立の寺田京子句碑(旭山記念公園)に刻まれている。   林桂「雪の精」 林桂は「栞」で、寺田京子の代表句〈樹氷林男追うには呼吸足りぬ〉にも〈日の鷹がとぶ骨片となるまで飛ぶ〉にも触れていない。もちろん意識的なもので人口に膾炙した句を避けたのであろうか。 林桂が「雪の精」で、『日の鷹』に触れているのは、次の部分である。   父の死のたちまち草色雪の中     『日の鷹』 ごったがえす雪靴雪下駄わが喪なり 父は死者離れきし位置暖炉燃ゆ にぎりめし屍焼く間の雪の笛 父の死をテーマとした一連。引用の二句目に目が止まる。「わが喪なり」とは何か。父の喪に服している私と読むのが自然だが、作者自身の喪が連想されているように思える。 生者に許されし切株櫻の芽 寒日輪喪章の終り火に投ず 突如飛び降りたし八階の日のさくら 骨は墓へ裸木に亡父の灯ひかりだす これは少し後の一連。冬の時間の中に「さくら」が挿入されている。瞬間的に湧く作者の自殺願望。作者の外部で起こっていることと、中で起こっていることが、合わせ鏡のようになっていて、読者を息苦しい思いに誘う。 作者が言う「自分の心の流れ」とは、このような構成をいうのであろう。 噴水や戦後の男指やさし        『日の鹰』 雪の夜のヘアピン海の匂いもつ   宇多喜代子「後記」より 「寺田京子の句を読んでみなさい。彼女は明日の命があるかないかわからぬところで俳句に向き合っています。」とあった。前田先生は「獅林」の主宰でありながら、熱心な楸邨門であった。そんなことをきっかけとして「寒雷」に親しみ、寺田京子を読むようになっていったのだが、『日の鷹』を手にして、あらためてその句の表現の強さに驚くばかりであった。 首たてて海を見にゆく秋の風 樹氷林男追うには呼吸足りぬ 白菜洗う死とは無縁の顔をして 日の鷹がとぶ骨片となるまで飛ぶ  ごったがえす雪靴雪下駄わが喪なり 天につながる梯子雪ふる奥に見ゆ 待つのみの生涯冬菜はげしきいろ こんな句は当時の私の周辺で目にすることはなかった。それでも読むうちにいつしか前田先生に勧められたことなど忘れて、寺田京子という俳人の句に一入の親しみを感じるようになっていった。 寺田京子は『日の鷹』の後、昭和四十九年に第三句集『鷹の巣』を出し、次の句集を見ることなく昭和五十一年の六月に亡くなった。   宇多喜代子は前出の句の他に最後に次の句を加えている。   噴水や戦後の男指やさし        雪の夜のヘアピン海の匂いもつ  凧とぶや僧きて父を失いき  (「鴎座」2020年2月号]) クリックよろしく

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