盧溝橋事件
盧溝橋事件出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内、 検索 盧溝橋事件 盧溝橋の国民革命軍部隊戦争:日中戦争年月日:1937年(昭和12年)7月7日場所:盧溝橋とその近郊結果:日本軍の勝利交戦勢力 支那駐屯軍 国民革命軍第二十九軍指揮官田代皖一郎中将宋哲元第二十九軍軍長戦力兵員:5,600兵員:100,000損害戦死:600余名[要出典]戦死:16,700[要出典]日中戦争主要戦闘・事件の一覧[表示]1937-1939年盧溝橋 - 北平 - 廊坊 - 広安門 - 平津 - 通州 - チャハル - 上海 (渡洋爆撃 - 四行倉庫) - 太原 - 南京 - 徐州 (台児荘 - 黄河決壊) - 武漢 (長沙大火) - 広東 - 重慶爆撃 - 南昌 - 襄東 - 贛湘 - 南寧 (崑崙関) - 冬季攻勢 - 翁英1940-1942年賓陽 - 五原 - 宜昌 - 百団大戦 - 江南 - 漢水 - 皖南事変 - 予南 - 錦江 - 中原 - 江北 - 一次長沙 - 二次長沙 - 浙贛1943-1945年江北殲滅 - 江南殲滅 - 常徳 - 大陸打通 (衡陽 - 桂柳 - 南部粤漢) - 拉孟騰越 - 老河口 - 芷江 - 湘桂反転表示 1937年(昭和12年)7月 支那駐屯軍配置図[1] 1937年(昭和12年)盧溝橋近郊戦闘経過要図[2]盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[3][4]。中国では一般的に七七事変と呼ばれる[5]。この事件は日中戦争(支那事変)の直接の導火線となった[6]。以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたこともあるが、今では正式名称ではない。この事件後に幾つかの和平交渉が行われていた(後述)。事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づく。 蘆溝橋事件ろこうきょうじけん目次蘆溝橋事件とは言及しているブログ関連ニュース関連キーワード 日中戦争の発端になった事件。 1937年7月7日の夜,北京郊外10kmの蘆溝橋付近で日本の駐屯軍1部隊が夜間演習中,数発の実弾の射撃を受け、点呼すると兵1名が行方不明であったので、対峙していた中国の第29軍37隊の兵士の発砲とみなし蘆溝橋城を砲撃、両軍の衝突となった。行方不明と思われた兵は20分後に戻ってきた。用便のため部隊を離れていたためという。当時,日本は華北5省を国民政府から分離する政策を進め冀東防共自治政府を発足させていたが、このような日本の侵略行動は中国国民の反日運動を激化させ、各地に不祥事がおこり不穏な状態にあった。事件そのものは両国の出先機関の不拡大方針で11日停戦協定が成立した。しかし近衛内閣は陸軍の強硬派の主張をいれ、同じ11日、内地3個師団の華北派兵を決定。これをうけて国民政府も全国にみなぎる抗日の気運に押され、華北への増兵を実施し同25日北京、天津で両軍再衝突。全面戦争となった。