慢性腎不全、人工透析、そして妻から腎移植
2013年 11月24日慢性腎不全、人工透析、そして妻から腎移植 何があっても この使命を貫く!プロローグ 【和歌山県新宮市】「結婚してください。苦労してもよかったら……」。1983年(昭和58年)、南紀・白浜の喫茶店。中村和宏さん(60)=光城支部、地区幹事=は、妻となる美知子さん(56)=婦人部副本部長(支部婦人部長兼任)に思いを告げた。 中村さんは、小さな洋食レストラン「はもん亭」を構えたばかり。夢の第一歩へと踏み出した、若手の料理人。店の経営など、いろいろ負担を掛けるだろう。そんな思いをにじませたプロポーズだった。 美知子さんは、うなずいた。“この人となら”と心に決め結婚。だが翌年、長男・寛則さん(29)=男子部ニュー・リーダー=が生まれた1カ月後、中村さんに「慢性腎不全」が判明する。バラの花束突然の宣告だった。 医師は、入院治療が必要で、その後も人工透析を続けるしかないと告げた。だが週3回の透析治療で、果たして店をやっていくことができるのか。食事制限もある。まだ31歳。料理人としての前途を閉ざすような現実だった。 中学を卒業後、和歌山県から名古屋市に移り住み、料理の修業を積んだ。最初の3年間は、ひたすら皿洗い。中村さんは鍋に付いたソースをなめて、味を覚えた。 そんな努力の末に、やっとつかんだ自分の店だ。医師の言葉を、何度も心の中で否定した。他の選択肢はないのか。薬で治らないのか。 “妻には、店の経営だけでなく、おれの病気でも苦労をかけることになってしまった……”。宿命を憎んだ。 そんな夫の姿に、美知子さんは“信心に、乗り越えられない試練はない!”と唱題を重ねた。 2週間が過ぎ、中村さんは腹を決める。“しょうがない……” 透析治療を始めると、歩くのもつらかった足に力がみなぎり、体の倦怠感は改善した。だが心は落ち込んだまま、完全には立ち上がれなかった。 入院が3カ月を過ぎたころ、白浜町の関西研修道場でSGI(創価学会インタナショナル)総会が行われた。中村さんは、池田名誉会長が和歌山を訪問したことを、聖教新聞で知る。 その直後――。入院中の中村さんのもとへ、バラの花束が届いた。名誉会長からだった。 師の真心が、じんじんと響いてくる。病室の代わり映えのない景色に疲れていた心が、一変した。奮い立った。 “透析しながらでも、料理は作れる。実証を示せるじゃないか。これが、おれの使命の道だ。必ず勝って、師匠に応えてみせる!”試練が歓喜を鍛え出す仕事のリズム 7カ月の入院生活が終わり、通院治療に切り替わった。 月・水・金曜日は、病院で人工透析を受けるため、午前8時30分に家を出て、午後2時に帰宅する。このリズムも、大切な仕事の一つと決めた。 自分の置かれた環境を受け入れる。その上で、積極的にどう行動を起こすか――常に自身に問い掛けた。 中村さんは、使命の人生を歩むための挑戦を始めた。ランチタイムに、厨房に入れないなら、それまでにできる限りの準備を終えた。手間のかかるソースやスープの仕込みなどは、早朝や深夜に手掛けた。店のため、動ける時間を効率よく使い、工夫をこらした。 透析により関節が硬くなり、手足に痛みが走る。少しでも良い状態を保とうと、指圧の治療院に通い、コンディションを整えた。 美知子さんも、朝晩の勤行・唱題の際、夫の横で祈り、一緒に仕事場に立った。いつも笑顔を絶やさず支えた。 共に料理の道を歩み、結婚を機に独立を果たした弟・省三さん(58)=地区幹事=の支えや、竹内秀和さん(54)=副ブロック長=が、厨房に加わったことも大きかった。 そうした努力が実り、店は繁盛していく。1990年(平成2年)、現在の自宅兼レストランをオープン。「白雲会(飲食業に携わる壮年・男子部の人材グループ)の一員として、実証を示すことができました」プレゼント だが――。体は少しずつ悲鳴をあげていた。人工透析を始めて27年が過ぎた、2011年6月のある日。夫の姿をそばで見てきた美知子さんが、思いも寄らないことを口にした。自分の腎臓を夫に移植したい、との提案だった。 美知子さんは、その少し前、友人から腎移植の実体験を聞く機会があった。医療技術の進歩を実感した。夫の体調を祈りながら、“これしかない!”と決意したのだ。 中村さんは、戸惑った。反対した。「おれは一生透析でいい。その話は二度とするな」 師匠への報恩の誓いを抱き、どうにかここまでやってこられた。健康な人の体から、腎臓をもらうなんて考えられない。まして、愛する妻から――。 だが、美知子さんの思いは強かった。夫の健康を祈り抜き、後日、母や兄ともう一度訴えた。 「2人で長生きをしたい」 その真心が胸に染みた。 後日、そろって名古屋市の総合病院へ。医師の説明に納得し、移植を決めた。12年2月15日が手術日に。その日は、美知子さんの誕生日だった。 移植に耐えられるか、さまざまな検査を終えて迎えた手術前日――。28年間続いた最後の透析を行う。 中村さんは、妻への感謝の言葉を探したが、見つからない。そんな夫に、美知子さんがほほ笑んだ。 「プレゼントをもらわないといけないのに、私からのプレゼントだね」 手術は無事に成功。免疫抑制剤による副作用など、さまざまな症状を乗り越え、中村さんは再び厨房に立った。夫婦で洋食レストランを経営エピローグ 試練と向き合い、勝利をつかんだ夫妻。「いつも2人で題目を唱えて、乗り越えてきたね」と振り返る。 美知子さんが「この人が後ろ向きじゃなかったから、ここまでくることができました」と語ると、中村さんは「妻に元気にさせてもらって、本当に感謝」と照れ笑い。 洋食レストラン「はもん亭」の名前に込めた意味。一つの石を池に投じれば、波紋が広がっていくように、地域に密着し、愛される店にしたい。そんな思いだった。 当初は8席しかなかった。今、2階建て約60席の店となり、県外からも客が訪れるまでに。店が拡大したことよりも、料理ができる喜び、共に働けるうれしさが、夫妻の胸にあふれる。 この歓喜の波紋を生んだのは、病気という困難だった。 池田名誉会長は語っている。 「人生には、大きく変わる時が必ずある。ここが正念場という、宿命転換、人間革命の勝負時がある。 いかなる試練があろうとも、汝自身の戦場から一歩も退いてはならない。その時を逃さず、断じて戦い、勝つことだ」 試練があったからこそ、絆は強くなった。夫妻で紡いだ喜びは、3人の子、10月に生まれた初孫にも伝わっていく――。 「来世もまた一緒に」 満面の笑みを浮かべる美知子さん。中村さんは、はにかみながらすぐに応えた。 「また苦労してもいいなら、ぜひ」