SLE(全身性エリテマトーデス)と闘う
〈生きるよろこび〉SLE(全身性エリテマトーデス)と闘った母娘の日々 2013年 9月4日 菜の花のようにまばゆく 【栃木県日光市】どれほどの涙を流し、どれほどの笑顔を交わしたことだろう。荒川礼子さん(50)=大沢支部、地区婦人部長=の次女・花菜さんは、膠原病の一つ、全身性エリテマトーデス(SLE、厚生労働省指定の特定疾患)と闘い、何度も生命の危機に瀕した。病苦に耐えながら、生きる喜びを"発光"させ、21年の生を閉じた。病と闘い抜いた母娘のドラマを追った。急性膵炎も発症 一面に菜の花が咲き、青と黄のコントラストが実に鮮やか。その写真を見つめ、荒川さんは決めた。 「そうだ。生まれてきた子の名前。"花菜"にしよう」 それは1990年(平成2年)のこと。 その名の通り花菜さんは、明るく天真らんまんに育った。ところが4歳の時。全身に皮膚症状が現れ、診断を受けたところ、「全身性エリテマトーデス」と宣告された。 自分の身を細菌やウイルスなどから守る免疫が、自らの体を攻撃してしまう自己免疫疾患と考えられている。倦怠感や、全身にさまざまな炎症を引き起こす原因不明の難病だ。 軽症から重症まで、病態は幅広く、重症化すると死に瀕する。 ステロイド剤の副作用により、顔が腫れ、花菜さんは120センチで身長が止まった。紫外線が体に悪影響を及ぼすため、登下校やクラブ活動など、友人と同じような生活は送れない。中学時代までは、長期の入院はなかったが、高校に進んだころから重症化していく。 2007年(平成19年)、高校1年生だった花菜さんは、急性膵炎を起こした。楽しかった高校生活は、途中で断念せざるをえなかった。 重症化した急性膵炎は、肺、腎臓、肝臓などの重要臓器にも障がいを及ぼす。難病に指定され、致死率が高い。 SLEを患う花菜さんの治療は困難を極めた。激痛や高熱と闘いながら、2度の手術を乗り越えた。何度も生死をさまよった。 食事の摂取はできなくなり、体重は20キロをきった。家族へ贈り物 字を覚えた小学生のころから、花菜さんは自らの胸の内を文字に託すようになった。丸字で書かれた、数え切れない手紙たちが、心の葛藤を家族に伝えていた。 『正直なんども、なんで私なのって当たったこともあったし、生まれてこなきゃよかったって思った時期もあった』 『たまには、弱音はいたり、わがまま言ったりしてもいいかな。 泣くこともいっぱいあるかもしれない。その時は我慢しなくていいよね』(以後、『 』の中は、花菜さんの手紙から) 娘と共に、母も闘っていた。荒川さんは、夫・吉秋さん(53)=副支部長=と交代で、毎日、病院へ通った。娘のために、娘が少しでも良くなるなら、と祈り、尽くした。 娘が病気になったことで自らを責め、心を痛めることもあった。自宅に帰り、御本尊の前で背中を震わせ、唱題を重ねる。そんな日々の中で、池田名誉会長の言葉に出あう。 「病気だから不幸なのではない。病気だから立ち上がれないということはない。妙法を持った人間が、不幸になるわけがない」 "病魔に負けていられない"。荒川さんの心は変わっていった。母と同じように、娘の中でも何かが動いていく。 花菜さんには、"病気で迷惑をかける"との、家族への申し訳なさがあった。そんな思いで書いていた『ごめんね』の文字が、『ありがとう』になっていった。病気による悲哀よりも、"今を生きる"ことへの感謝が上回っていった。 人一倍、生まれた意味を自らに問い続ける中で、否定的に考え、煩悶した時期もあっただろう。誰のためにも役に立てない、と涙を流したことも。 だが歩くこと、立つことさえもできなくなっても、枯れることのない心の泉があった。"自分にできること"がある喜びだった。 『今自分にできる精いっぱいのことを頑張るからね♪ そして、すなおにどんなに小さなことでも感謝して幸せ〈ありがとう〉ってよろこべる人になろうと思ってるよ!! 本当にお母さんの子に生まれてこれてよかった』 花菜さんの病室を訪れる。パッと光がほとばしるような笑顔が輝く。荒川さんも笑顔を返す。 荒川さんは思った。「この子は、他のだれよりも生きる喜びを感じ、人に伝えている」 部屋を訪れた看護師や医師、友人たちは「花菜ちゃんに会うと、元気が出るよ」と口をそろえて言った。君の笑顔に"春"の光最後のメール 2年前の1月。日光市が募集した「成人の主張」に応募し、発表者に決まった。参加できなくとも、病院で何度も録音した。 花菜さんの声が、スピーカーを通して会場に響く--。 病気はつらい。でも、だからこそ、知ったことがある。人の温かい心。人は、どれだけ人に支えられているのか。そして、「生きていることだけで、どんなに幸せかということ」......。同世代の友の心に深く刻まれたことだろう。 昨年2月、一時退院の許可が出た時、自宅の仏間に置いたベッドの上で、荒川さん、姉・愛海さん=女子部部長=と題目を唱えた。 「おうちはいいね。お題目、思いっきり唱えられるから」 在宅中、娘たちと唱えた歓喜の題目。荒川さんは、限りない幸せを感じ、この時がいつまでも続くよう心から祈った。5日間を家で過ごした後、花菜さんは元気な姿で病院へ戻った。医師が驚くほどだった。しかし、その2カ月後、病態が悪化。 「かんこ(=花菜)のぶんまで、ちゃんと、学会活動してきてね」 母へ最後のメールを残し、花菜さんは、21年の生涯を終えた。 ◇ 『すてきな名前をありがとう。菜の花のように小さくても どうどうと前を向いて生きるからネ。太陽に向かって空たかく!!』 かつて花菜さんが記した手紙を見ながら、荒川さんは語った。 「あの日、名前に込めた願いのままに生きてくれました。思い出すと、花菜の笑顔しか浮かばないくらい、いつも笑っていました。生きた年齢で量れないほど、たくさんの励ましを送りながら、走り抜けていったんだと思います」と。 花菜さんが病室に置いていた御書に、線の引かれた箇所がある。 「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」(1253ページ) 病院に訪れては、花菜さんと女子部の活動の様子を話してきた愛海さん。悲観することなく、希望を手放さない妹の姿は、輝いて映った。 「妹は自分が"冬"の中にいながら、いつも家族や周りの人の幸せを祈っていました。どうすれば人に"春"の喜びを与えられるか--病気と闘うなか、人間として強く、優しく、気高く成長したと思います」 花菜さんからの家族への贈り物。それは、数多く残された手紙と、天使のような、まばゆい笑顔。 そして、試練の冬にも、自ら春を見いだしゆく、"心"の強さ--。