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ラッコの映画生活

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2007.01.28
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IDENTIFICAZIONE DI UNA DONNA
Michelangelo Antonioni

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ミケランジェロ・アントニオーニって言うと、『情事』、『太陽はひとりぼっち』等イタリア時代の白黒作品や初カラーの『赤い砂漠』、外国に出て撮るようになった『欲望』~『さすらいの二人』等のカラー作品は、好き嫌いはありますが評価は高いし、特別に好きな人もいますね。なにせカンヌ、ヴェネチア、ベルリンのすべての映画祭でグランプリを受賞している映画監督です。彼は1985年に脳障害で倒れますが、その直前のこの『ある女の存在証明』と1995年にヴィム・ヴェンダースの助け借りて作った『愛のめぐりあい』になると、どちらかと言えば不評なようです。(3話オムニバスの1編を撮った『愛の神、エロス』はまだ見ていません。)

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この映画、おそらく20年ぐらい前にパリの映画館で見たのですが、大して難しい会話はないのでフランス語字幕はほぼ解ったものの、映画自体はよく解りませんでした。解らなかったという記憶があるからかも知れませんが、ずっと印象には残っていて、気になる作品でした。ある種のインパクトはあったんでしょうね。で今回VHSで見ました。まず感じたのは、イタリア時代のモニカ・ヴィッティの作品、特に同じくカラーのせいか最後の『赤い砂漠』そして『愛のめぐりあい』と同じ雰囲気を感じました。アントニオーニだって知らなくても、もうアントニオーニの雰囲気ですね。つまりは作品の出来・不出来以前に、やはりこの人は独自のエクリチュールを持っているということで、これはシネアストに限らず表現者には必要なことです。『愛のめぐりあい』とは、アントニオーニの分身的存在の映画監督が次作の構想を練るという物語的基本枠も同じですか。

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この映画の中で2度別の人物の口から言われる同じセリフがあります。テロリストカップルの話です。「二人は政治的思想も同じなら、活動も生活もすべて一緒だった。でもそこに違いが出来たとき、女は子供も夫に押し付けて去ってしまった。」と、だいたいそんなセリフです。2度も使われるということは意味は大きいはずです。それまでアントニオーニが描いてきた「愛の不毛」とか「人間間のディスコミュニケーション」というのは、過去の時代との対比です。つまり、それを戦前とするか、前世紀とするか、そういう特定はあえてここではしませんが、たとえばキリスト教を中心とする世界観や信仰、要するにほとんどの人々、社会全体に共通の世界観、信じ込みが、現代にはなくなってしまったということです。「神の存在自体あやしいのに」なんてセリフが『赤い砂漠』にもありましたね。ベルイマンなら「神の沈黙」となることですね。テロリストのカップルは共通の世界観・政治思想を持っていたから愛も可能だった。でもその共通が失われたとき、愛も不可能となるということです。

白っぽい壁か何かの中央より下の部分に茶色っぽい四角い何かがある。そんな固定映像から映画は始まります。やがて画面下の部分にドアが開き、主人公の映画監督ニコロ(トーマス・ミリアン)が登場する。上からの俯瞰だったんですね。この最初のショットの視点が初め観客に解らないこと、これには意味が感じられます。世界観が共通に定まっているということは、世界を見る視点が皆同じということです。でも世界観が自分一人でも明確に持てなかったり、人々それぞれで異なっているということは、世界を見る視点がハッキリしないということです。冒頭で視点の不確実性を観客に突き付けるところから映画は始まるわけです。ニコロは旅行から帰ってきたらしい。カバンを持っています。階段を昇って自分の部屋の前に来ますが、防犯警報装置解除のための鍵を持ってないことに気付く。仕方ないからドア開けて、床を這って進むんですが、でも警報が鳴り始める。室内の隠してある合鍵捜して警報を止める。ニコロは離婚したらしい。階段のところで彼はメモします。「恐怖心の強かった妻は去ったが、警報装置は残していった。」とかなんとかです。そんなことはメモすることでは普通ありません。きっと映画制作のためのメモなんでしょう。ニコロが実人生と映画制作、つまりフィクションである映画の中で描く世界を混ぜ合わせにしていることが語られているわけです。見知らぬ男から電話があり、是非に話したいことがあるというのでカフェに会いにいくと、チンピラ風の男が「あの女性とはつき合わない方が良い、と忠告する。」と言う。ニコロの姉は病院の産婦人科の主任なんですが、彼女の職場で彼が姉に代わって電話の応対をすると診察希望の女性マーヴィ(ダニエラ・シルヴェリオ)からで、「映画監督という職業がら、声を聞いた人に実際に会ってみたい。」とかニコロは言うんですが、彼はマーヴィとつき合うようになる。そしてこの彼女が忠告された女らしく、家を監視されたり、尾行されたり実際にする。この時間関係もはっきりしないですね。カフェでの忠告の方が実際にマーヴィとの付き合いが描かれるより前に描かれるわけです。その後の映画の流れは時間通りに進みますから、やはりここも、映画冒頭で物事、出来事、また記憶などの不確実性、曖昧性を観客に提示しているのかも知れません。

(以下ネタバレ)
ニコロはマーヴィとつき合い、彼女の家庭の世界であるお金持ちたちのパーティーとかにも一緒に行ったりしますが、その閉鎖的社会にはニコロの接点はない。マヴィは子供の頃から嫌っていた男性に呼び止められ、実は彼女の実の父親であることを知らせられたりする。そんなこんな色々なことがあるうちに、実は彼女の母親がニコロとの関係を持たせないようにしているらしいことがわかってくる。田舎に借りている家にニコロはマーヴィと夜車で向かう。途中濃い霧で思うように先にも進めない。言い争って車を降りた彼女。後から彼女を捜す彼。何も見えない。車に戻ると彼女は助手席に座っている。でもこのかなり長い時間に何が彼女にあったかは解らない。追っ手の誰かに会ったのかも知れない。人々はバラバラで、共通の何かを持たないから、愛し合う(?)相手のことすらつかめないんですね。2人はニコロの借りている家に着く。二階建ての家の下はローマの遺跡で空洞となっていて、少しずつ上の家を崩壊させているらしい。土台のしっかりしない空虚の上に成り立った世界は崩れ去るしかない、という意味でしょう。それがニコロやマーヴィや2人の関係を象徴しています。部屋でマーヴィは「愛している」と言って欲しいと言いますが、ニコロは「好きだ」とは言っても「愛している」とは言わない。一度も言ったことはないと言います。恥ずかしいからだと説明しますが、実は信じるものなしに愛など語れないということです。やがて彼女は突然消えてしまう。ニコロは訪ね回って居場所を突き止めますが、彼女はもちろん会うことを拒否しているわけで、窓から道路を見下ろす彼女と道路から窓を見上げる彼が見つめ合っての別れです。これはオムニバス『愛のめぐりあい』の第1話の最後に似ています。『愛のめぐりあい』のレビューでは別の見方を書きましたが、もしかしたらどちらの場合も、仮に惹かれ合い、愛し合っている2人でも、愛を根拠づける何かがなければ愛は不可能だということかも知れません。

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ニコロは次に前衛劇団のイダ(クリスティーヌ・ボワッソン)とつき合うようになる。最初は消えたマーヴィの探索や脅迫の主をつきとめようとしているのとダブッていて、イダは調べてマーヴィの消息のヒントをニコロに教えたりします。マーヴィとの付き合いを良しとせずに脅迫していた主を知ろうとしても、今さら何の意味があるの?、とニコロに訊きますが、信じるものを持てずにいる彼は、自分を取り巻く何らかの疑問を解消することの欲求が強いわけです。共演者の病気で時間の出来たイダをニコロはヴェニスに連れていきます。ラグーナの寂しい静かな水面にボートで漂う2人。ポチョピチャとボートに当たる海の水の音だけがします。何の拠り所も失い、ただ水音だけがし、ゆらゆらと揺れて定まらないボート。あたかもニコロが世界を見るはっきりしない土台そのもののようです。ホテルに戻るとイダに検査結果で妊娠が確認されたことを知らせてる電話。子供が出来たことをイダは喜んではいるが、ニコロへの思いがあるので簡単ではない。彼とつき合う前の関係の子供だ。ここでイダの口から例のテロリストカップルの話が語られるわけだが、結局共通のものを持てないニコロは去るしかない。

ニコロの姉が産婦人科医で、その診察室で妊婦のお腹など写真の載った専門誌を見ること、あるいは最後にイダが妊娠することなど、こんな不確かな世界の中でも次から次へと人類が存続していることを言いたいのかも知れません。

原題にある「una donna」=「一人の女」とは、別れた妻でも、マーヴィでも、イダでもない。象徴的にニコロは次回映画の主演女優を探しているが、世界観のような土台を共有し、「愛している」と言える、だが決して見つからないであろう「一人の女」なのだろう。



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Last updated  2007.01.28 04:44:12
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