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人生とはハードルの連続容易には越えられないハードルを越えた時に人は成長する一度や二度、越えられないハードルがあっても諦めてはならない目の前のハードルは常に越えるためのものと自分に言い聞かせているか越えられるまで何度でもトライすることに意味があるトライせずして「無理だ」と思っている人間にはゴールは訪れてこない二本の足がある限りチャレンジしつづけよう自分には越えられないハードルはないと言い聞かせよう
2006.08.31
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私が森に引きこもった理由…それは大地に根ざした暮らしをしたかったからだ。私は思慮深く生きたい。生きることの精髄を心ゆくまで味わいたい H.D.ソーロー「森の生活」から
2006.08.30
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ニュースから:早実・斎藤投手の「青いハンカチ」大放出夏の甲子園で優勝した早稲田実業の斎藤佑樹投手が愛用する青いハンカチを、斎藤投手の故郷、群馬県のスーパー「ベイシア」(本社・前橋市)が大放出。買い物客80人に抽選で贈呈する。決勝戦の翌日、大阪市内のメーカーに発注。「類似品でもいいから」と頼んだのに本物がきてびっくり。「斎藤君は息子と同じ野球チームだった」という社員もいて、販売ではなくプレゼントすることにした。同県伊勢崎市内の対象店で9月1日から3日間に1500円以上買い物した人が対象。「王子ファン」が殺到しそうだ。毎日新聞 2006年8月29日 19時45分 (最終更新時間 8月29日 20時00分)***********「憧れのあの人と同じ…」中年オヤジが駅のホームで汗だくの額をぬぐったハンカチはただのハンカチなのだけど、甲子園で活躍したあの斎藤選手がマウンドで汗をぬぐったハンカチならまた別物。ヒーローやアイドルが使っているものはなぜか特別の価値を持つものなのだろう。甲子園だけとは限らないが、観衆が偶像(アイドル)を生み出すケースはこれまでにもあった。アイドルとはいつもファンによって作り出されるものだということを常々思わされる。マス・メディアが大きく取り上げれば、それだけ人気は加速度的に上昇する。本人のみならず、本人にまつわるすべてのものが偶像化させられるというもの恐ろしいことだが真実である。本人を一目見ようとわざわざ実家まで訪ねていくファンもきっといることだろう。今回は斎藤選手の代わりにそのハンカチまでもが偶像化されてしまった。勝利のために流す汗は無条件で美しい。その汗を拭い去るハンカチもまた美しいものに違いない。この青いハンカチをわざわざ買う人たちは(恐らく女性が大半ではないかと思われるが)、青いハンカチを斎藤選手の分身(もしくは化身)として崇(あが)め奉(たてまつ)ろうとしているのだろう。家にある祭壇や仏壇のごとく、ひとつの信仰の形としてハンカチを自分自身が所有することで斎藤選手を神格化しようというもくろみなのだ。「青いハンカチ=斎藤選手」という発想から、ひょっとして、自分で買った青いハンカチに頬ずりして思い出し笑いをしている女性がいたとしたら少し怖いものがあるけれど…。思い出すのは30数年前、「平凡」や「明星(みょうじょう)」といった雑誌の付録の「天地真理のポスター」や「アグネス・チャンのピンナップ」とかを部屋の壁に張って喜んでいた時代が懐かしい(妹は西城秀樹のポスターを張っていた)。自分と同じ人間であるはずなのに、どういうわけか神様と同じ別世界の存在という風に自分に言い聞かせてアイドルをいっそう特別な存在にしてしまう。アイドルを持つことで自己満足することができるのはやはり人間の特権か。青いハンカチを持つことで少しでも幸せになれるのなら救いである。
2006.08.29
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「メタボリック症候群」とは…・腹囲(へそ回り) 男性:85センチ以上 女性:90センチ以上・中性脂肪:150mg/dl 以上・HDLコレステロール:40mg/dl 未満・血 圧:150/85mmHg 以上・空腹時血糖値:110mg/dl 以上以上5項目のうち該当するものが3つ以上ある状態を「メタボリック症候群」と定義している。数字だけでは健康診断の診断票がなければピンと来ないのだが、とにかく内臓にたっぷり脂肪がついている者は要注意ということだろう。最悪の場合、動脈硬化を引き起こし、心筋梗塞、狭心症、脳梗塞、閉塞性動脈硬化症など命にかかわる病気につながる場合もある。見た目は痩せていても、内臓に脂肪がついているいわゆる「隠れ肥満」も肥満予備軍といっていい。油断は禁物。脂っこいものを好んで食べている人は当然危険性大だが、ふだん脂っこいものを食べなくても、糖質や炭水化物中心の食事ばかり摂っていると上記の数値は他人事ではなくなってしまうそうだ。 生活習慣病の温床ともなるべき「メタボリック症候群」、まずは規則正しい食習慣を実行しよう。寝る前の馬鹿食い、朝食抜き、スナック類を食事に当てるなどは避けたい。基本は3食、バランスを考える。特に野菜や果物は多めに摂ることだろう。若い人はサラダを好んで食べるだろうが、野菜は煮たもの、茹でたものを摂るのが理想。ほうれん草一束も塩茹ですれば見た目の量の3分の1くらいになってしまう。 サラダをひと盛り食べたといっても量的にはたいしたことはないのである。我が父も以前は80数キロあったがミルクダイエットを行って成果を挙げたことがある。食事前に低脂肪乳をグラス1杯か2杯飲んである程度おなかを膨らませてから食事に挑む。何か食べたくなっても水か低脂肪乳を飲むようにしていた。我慢できなくなってもりんごなどの果物で済ませる。間食を避け、食事は必要以上によく噛み、味わって食べる。炭水化物は米か芋に限定、味噌汁などの汁物はいくらでも摂っていい。豆腐や大豆製品(納豆など)は多めに。デザートにはわらび餅やこんにゃくゼリーなどの低カロリーのもの。休みの日には積極的に体を動かし、散歩に出かけたり自転車で遠出してみたり、駅やデパートでは、エスカレータやエレベータを使わず階段を駆け上がる。 テレビを見ながら体操をしてみたり、腕立て伏せや腹筋をたとえ5回でも10回でも繰り返しやってみたり。そんな生活を3ヶ月続けて15キロ近くウェイトを落としただろうか。気分次第でやるダイエットはなかなか難しいし効果も目に見えて現れるものでもない。計画的かつ継続的に実行することが大切。家族や友人に目標を宣言して、サポートしてもらうことも必要だろう。健康は自らの努力で作り出すもの。歳をとれば健康を維持することだけでもたいへんな労苦を伴う。精神面でも肉体面でも健康でいられるのが一番だと思う。*******メタボリック症候群もこれで撃退!!
2006.08.28
「常識は便宜上、人間が作り出したもの。捉われることなかれ」一粒の星砂さんが彼のブログ「オーラの泉」でそんなことを語られていた。おおよそ人間が作り出した常識の中で、もっとも我々が囚われていると思われるものは何か?自分にとってその答えは「時間」である。1日24時間、1年365日という枠の中で人は生活する。朝起きて夜眠りにつくまでこの営みは命果てるまで延々と続けられる。だが、しょせん時間という概念も人間の便宜を図るために作り出されたものに他ならない。1994年6月から10月にかけてアラスカ、アンカレジからカナダのケベックまでを自転車で走破した。夏の北極圏(北緯66度33分)は太陽が沈まない。いわゆる白夜(white nights)が続く。沈まぬ太陽は東から西へと水平に移動する。妙なものだが、我々文明人が生活する中で朝昼夜という感覚は非常に重要な意味を持っている。太陽が沈まなければ、いつ朝が来ていつ夜になったのかがさっぱり分からないのである。原始、人々がそうしていたように、腹が減れば何か食べ、のどが渇けば何か飲み、眠くなれば眠る。当時仕事をしていなかった自分にとって、アラスカ北極圏での生活はそんな風にいともシンプルなものになった。腕時計もしてはいたが時間を気にすることはほとんどなかったし、それまでいかに自分が時間に囚われた生活をしていたかがよく分かった。「時間とは流れていくものではない。時間とは蓄積されていくもの」真夜中の太陽(midnight sun)が照りつけるアラスカで、自分が悟ったのはそんな事実であった。蓄積された時間が自分の人生となり、時代や歴史をつくっていく。過去は永遠に現在を追い越すことはないし、過去が現在に戻ってくることもない。過去は人々の記憶と記録の中に生きつづける時間。人間以外の動物にはあまり過去や未来という概念はないのかも知れないが、人間は歳をとればとるほど過去にこだわるものなのだろう。現在という時間を生きながら、未来を追い求め続ける。現在とは未来を捕まえるためにある時間、と同時に蓄積された時間を過去にストックしていく営みのために存在する時間なのだろう。個々の人間がこの世で与えられた時間は限られたもの。どんなに長くても100年。普通にみても70~80年。46年生きてきた自分にとってはもうあと半分も残されてはいまい。これまでの人生は決していいものだったとはいえないが、後悔はしていない。今の自分に多少の不満はあっても、決して自分が不幸であるとは思っていない。この世での最後の瞬間に「いい人生だった」と言える人こそが真の成功者ではなかろうか。蓄積された自分自身の時間を宝物と言えるかどうか。ただやみくもに流され消えていった時間、追いかけることも取り戻すこともできない時間を悔やんでいるだけでは悲しいし、情けなくもある。時間とは流れていくものではない。時間とは蓄積されていくもの。人生が1日で終わることはまずないけれど、1日も70~80年も結局のところ変わらないのだろう。宇宙の歴史から見ればどちらも微々たるものなのだから。時間に流されることなく、自ら時間をリードしていけるような生き方が理想だ。いちいち時間を気にしながらせかせか生きるのではなく、何かに夢中になっていて、気がつけばあっという間に時間が過ぎてしまっていた、と思えるような充実した時間を送りたい。(photo: 北極圏への入り口、アラスカ1994年6月)**************食物繊維、足りていますか?
2006.08.27
時間とは流れていくものではなく蓄積されていくもの
2006.08.26
「大」(「犬」ではなく)の字になって眠れるという幸せ
2006.08.25
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こうも暑いと、冷たいものなしではやっていけない。かき氷もいいけれど、夏の風物詩アイスクリームがうれしい。今はコンビニやアイス専門のお店があって年がら年中買うことができるけれど、昔はそんなしょっちゅう口にすることもできなかった。その代わり、「チューチュー」と呼ばれた、清涼飲料水をチューブみたいな容器につめて凍らせたものを夏休みには食べていたような気がする。お祭りの夜店では「アイスクリン」と書かれた看板が立っていて、目の前でおじさんがコーンにアイスをスクープで入れてくれた。ニュージランドで食べたキウイフルーツフレーバーのアイス、爽やかな薄黄緑色のアイスは一度食べて病みつきになった。一日に4つも5つも食べた日があった。バニラアイスをミルクに浮かべ、ちびちび食べるのが個人的には好きだ。旅先では食パンにアイスクリームをサンドウィッチして食べたりもした。学生時代に、大学の近くの喫茶店でアイスクリームのてんぷらを初めて体験した。カリッと揚がった熱々のころもの下に舌が痺れるくらい冷たいバニラアイス。何ともいえない微妙な舌触りにちょっとした貴族気分であった。先日ミニストップで「白桃ピーチパフェ」なるものを教え子の一人に薦められて食べてみた。ジェリーが入っている上に、凍った白桃がシャリシャリいってとてもおいしかった。気温が35度を超える暑さもあってか、3つでも4つでも食べれそうな気がした。今もあるのかどうか知らないが、子供の頃、クリスマスにアイスで作ったデコレーションケーキを買ってきてもらったっけ。寒い冬であるにもかかわらず、暖かい部屋で食べたアイスケーキの味が今も忘れられない。「アイスクリーム 食べてる人は 皆笑顔」この暑さはまだ続くようです。アイスでも食べてのんびりしませんか…?
2006.08.24
「いったいこの暑さはいつまで続くのだろうか…?」
2006.08.23
時々、ごくまれにではあるが、発作的に無性に食べたくなるものがいくつかある。大阪難波551蓬莱の豚まんもそのひとつ。今年創業60年という老舗。自分も大阪生まれなので幼い頃からこの味に親しんでいる。関東では「肉まん」と呼ばれているのだろうか。蓬莱はなぜk「豚まん」なのだ。ふわふわの皮の中にはたっぷり詰まったお肉がとってもジューシー。蓬莱はアイスキャンデーも有名である。大阪阿倍野の一角にある「たこつぼ」も明石焼きとねぎ焼きがおいしい。ここも30年以上の歴史がある店。名前は忘れたが、大阪は新世界、通天閣の近くに串カツ屋さんがあって、カレー皿のようなお皿にどっぷりウスターソースが入れられてある。揚げたての串カツをこのソースにつけて食べる。また食べ放題の大きなキャベツの葉もソースにつけて食べると不思議とおいしい。さすが食いだおれの街大阪。いついってもお好み焼きやらたこ焼きやら食べるものに事欠かない。学生時代も、王将の餃子を死ぬほど食べたくなったりして、日曜の午後にふと出かけて4~5人前をぺろりとたいらげたもの。おいしい店を一日かけてはしごするのもいい。おいしいものが食べられる幸せを堪能することも平和で心癒される時間だ。愛する人と、おいしいものが食べられる時間をぜひ持ちたいものだ。
2006.08.22
『結局はどこへ行っても自分次第。頑張って結果を出せばいい』 大黒将志(G大阪→フランス2部リーグ・グルノーブル)
2006.08.21
暑いよ~。何とかしてくれって!!
2006.08.20
ホリエモンことライブドア元社長堀江氏がトライアスロン(鉄人レース)に強い関心を抱いているというニュースを見た。会社を経営するのも走るのも英語では“RUN”なのだが、トライアスロンは会社を経営するのとはまた訳が違うと思う。1980年代にはトライアスロンにハマっていた。1990年のびわ湖アイアンマン(日本選手権=スイム3.9キロ、バイク180.2キロ、ラン42.2キロ)を最後に完走して以来一度もトライアスロンのレースには出ていない。あの頃は毎日がトレーニングのためにあった。真剣にトライアスロンに取り組んでいる人は、まず体を動かすことが生活の基本であるからして、通勤手段として自転車やランニング、スポーツクラブかスイミングスクールで泳ぎのトレーニング、部屋にトレーニングマシーンをいくつも入れてジムにしていたり、休みの日も長距離の自転車やランニングを取り入れるため、家族や恋人はその犠牲になることは間違いない。実際あちこちのレースに出場して宿で知り合った仲間の中には、トライアスロンのために離婚を経験していたり、家族を犠牲にしていたり、彼女にフラれてしまったりしている人が少なくない。自分自身もびわ湖で上位150番に入ってハワイのアイアンマン世界選手権を目指していたが、今となっては夢のまた夢。クロールで肩を痛めたために水泳はもうほとんど無理な状態だ。40代や50代でもトライアスロンに取り組む人は多い。たとえゆっくりでも長い距離を泳ぎ、自転車に乗り、走ることができればトライアスロンは決して難しいものではない。根気よく地道にトレーニングに取り組むことが完走の秘訣だからだ。運動と食事に気を遣ってきたおかげで40を過ぎても10歳から15歳は若く見られる。今はもっぱら自転車と走るトレーニングがメインだが、冬場にはクロスカントリースキーやスノーシューを使ってのトレーニングも行う。名古屋にいた頃にはローラーブレードも週に一回はやっていた。汗をかくのは気持ちがいい。ポジティヴな生き方とは、全身全霊で生きること。頭を使い、心と体を動かすことが不老長寿の秘策かもしれない。ささやかなボランティア活動として、喫煙者のタバコを止めさせ、マラソンを完走させるというプロジェクトにこれまで何度か取り組んできた。健康で長生きすることが幸せへのファーストステップであるとしたら、ゆっくり長く遠くまで走るのが一番。人生はマラソンレース。最後まで亀の歩みでもかまわないから止まらずに前進し続けよう。(Photo: アイアンマン・ジャパン in びわ湖 1990年6月)
2006.08.19
エッセイ「夏の日の午後」
2006.08.18
「想像してごらん 天国なんてないんだと…」故ジョン・レノンが歌う「イマジン」のイントロである。「国というものもない。宗教さえもない」この歌の世界が実現したとすれば、ロシアの日本漁船銃撃事件も、イスラエル-レバノンの争いも、英国のテロ未遂事件も、靖国神社参拝問題も、北朝鮮の拉致問題も、一切起こりえないこと。「すべての人々が平和に暮らし、すべての人々が世界を分かち合う…」そんな世の中が理想だけで終わってしまうのでは困るのだけれど、こうなるべしというモデルでなければならないのは確かだ。ジョンの死から26年、日本の敗戦から61年、いつまでも理想が理想のままで現実と平行線の状態をたどっている。むしろ世の中はそんな理想から少しずつ遠のいていってしまいつつあるような気がする。****ブータンと呼ばれる国がアジアの一角にある。国民の約9割以上が自分の国に満足していると答えている。求めているものをある程度努力すれば得られるし、ふつうに暮らしている限りでは苦しい生活を強いられることはまずない。国民がいろんな面で満足しているからには犯罪もめったに起こらないのだろう。犯罪が起こる背景には、国の政情が大きく影響してくるものだ。世の中はフェアではない。そして一人ひとりの人生もフェアではない。だが、それをフェアにするための努力は必要だ。****ジョンは「イマジン」を歌うことで世の中をフェアなものにしようとした。だがその尊い命さえもフェアではない結末を遂げた。持つ者と持たざる者がいる。持たざる者が持つ者から奪い取ることはフェアではない。持つ者が持たざる者に分け与えてこそフェアな社会なのだ。進んで分け与えられる人であるか?快く分かち合える社会であるか。実はシンプルなことなのだけれどなかなか実行に移せない。理想郷はそんな複雑な世界ではないはず。「難しいことじゃないんだよ」ジョンがそう歌っているではないか。John Lennon "Bagism" (English Site)
2006.08.17
やってしまった後悔はだんだん小さくなるけど、やらなかった後悔はだんだん大きくなる(林真理子)**********人生いちかばちか、のるかそるかの選択を迫られた時、どう対処するかでその後の運命も決まってくるのであろう。大切なことは、失敗を恐れていては何もできないということ。たとえ失敗だらけの人生であっても、何もせずに燻(くすぶ)っているよりはよっぽどましである。失敗からも学ぶことが十分にあるということが分かっているならば、失敗して後悔することなど大したことではないのだ。好きな人ができたら、迷わず告白する。たとえふられて後悔するにしても、告白せずに悶々(もんもん)としている方が馬鹿馬鹿しい。冒険することをためらう人間は優柔不断な一生で終わってしまう。チャンスはある日突然めぐりめぐってやってくる。ここ一番という絶妙のタイミングをとらえるか否かは、迷わずそのチャンスに賭けてみること。安全策をとったがために危機・危険に出くわすことの方がむしろ多いのかも知れない。
2006.08.16
敗戦から61年目を迎える。地球全体を見渡せば、21世紀に入っても戦火は一度たりとも消えたことがなかった。宗教や領土をめぐって、いつもどこかで誰かが傷つけられ殺されている。それは日本だって同じかもしれない。金や地位や名誉、私利私欲に走るがために命の奪い合いをする。親子や兄弟、肉親、友人、恋人同士の中でさえ争いは絶えない。こうしてみると人間とは何と好戦的な生き物であろうかと思う。戦争を知らない世代は増え続ける。戦争を経験した人々の記憶を語り継いで行くのは今生きている我々に他ならない。88歳でホームページを作られている方がいる。戦争をリアルタイムで経験し、戦場を駆け抜けて今という時代に生きていられるという幸せを我々に教えてくれている。と同時に戦争がいかに矛盾と不合理に満ちているかを物語ってもくれている。いついかなる時も不戦の誓いを忘れてはならない。日本のみならず世界中のすべての人々が争うことのない地球を作るのが我々の使命だ。終戦記念日って…?88歳のホームページ
2006.08.15
そもそも自分が剣道を始めたきっかけとなったのは、小学校6年生の時に読んだ、吉川英治の宮本武蔵(全6巻:講談社文庫 今は全8巻になっている)だった。そんな長編小説を読んだのもそれが最初だったし、武蔵というひとりの剣士のクールでストイックな生き方が素晴らしく思えた。読み終えてから間違いなく彼は自分のヒーローになった。映画やドラマも欠かさず見た。中学生の時に、中村錦之助(宮本武蔵)と高倉健(佐々木小次郎)のメインキャストで作られた「宮本武蔵」が特に良かった。ラストの巌流島の決闘では結末が分かっていたにもかかわらず、ドキドキハラハラしながら見ていた。宮本武蔵の生き方に徹しようと、彼の兵法について書かれた「五輪書」を読み始めたのもこの頃だった。読書に励み、中学の剣道部の活動は無欠席だった。練習がない日も家の軒先で木刀を持って素振りをした。拾ってきた廃材で彫刻をやってみたり、絵を描いたりして、剣豪となるための「修業」に目覚めたわけである。中学2年生の担任の先生はM島先生という、大学を出てまだ2年目の女の先生だった。いろいろ気を遣ってくれて、いつの間にか気がつくとその先生の方をじっと見ていたり、一人で部屋にいると彼女のことばかり考えるようになっていた。それが恋愛感情というものだと気づくまでには少し時間がかかった。「修業に励むものが女にうつつを抜かしていてはなるまい」ここはやはりストイックな生き方を守らねば…。何かをする際「武蔵ならどうしたか…?」を常にベースとして考えていたのだ。司馬遼太郎氏の「梟の城」を読み終えて、いろいろと過去の自分を思い返すことがあった。忍びの世界も剣の世界も同じように厳しいものがあったことだろう。「耐えてしかるべし」という教えを忠実に守ることが当たり前だった時代に、今の自分をおいてみる。まだまだ今の自分は甘いのであろう。結局M先生は思い出の人で終わってしまった。その後何度か手紙のやり取りはあったが、結婚して関東の方に引越したという知らせを聞いてからはほとんど連絡が取れなくなってしまった。高校・大学と剣道を続け、教員になってからもクラブの顧問として練習に励んでいた。今はもう竹刀や木刀を持つことはなくなってしまったが、剣道場の方から稽古に励む剣士たちの声と竹刀の音が聞こえるたびに当時の自分を思い返す。「武蔵なら、今という時代をどう生きていくだろう?」ふとそんなことを考えてみる。幼い頃に生き方を学び、心の師と仰いだ武蔵について今一度学びなおそうかと思う。
2006.08.14
最近、個人的に忍者への関心が高まってきた。司馬遼太郎氏の「梟の城」の影響だろうか。忍びの世界に生きる男たちの、クールでハードボイルドなその生き様に憧れてしまう。幼い頃、真剣に忍者になりたいという気持ちが今再び自分の中に舞い戻ってきたようだ。インターネットで検索していると「伊賀流忍者店」のウェブサイトにヒットした。忍者の衣装や刀、手裏剣なども扱っているという。車で20分程のところにあるので、直接訪ねてみようか。11月の伊賀上野シティマラソンを忍者の衣装で走る。これっていいんじゃない…?
2006.08.13
司馬遼太郎氏の「梟(ふくろう)の城」を何年かぶりに読み返している。この小説、舞台が今住んでいる三重県伊賀市で、伊賀忍者が主人公。幼い頃、「仮面の忍者赤影」というドラマがあって、忍者にはずいぶん興味があった。大きくなったら忍者の修行をしようと真剣に考えていたし、剣道を始めたきっかけも実は忍者にあった。この原作をベースに、数年前に篠田正浩監督が同名の映画を作ったという話も聞いている。映画を見た友人は、「原作が面白すぎたせいか映画はもうひとつ…」と感想を述べていた。忍者とは隠密、いわゆるスパイ。職業としての忍者はやはり厳しいものがあったことだろう。主人公の葛篭重蔵(つづらじゅうぞう)は、ハードボイルドでストイックな生き方に徹するのかと思いきや、くノ一の小萩(こはぎ)に魅せられて、乱波の世界から足を洗ってしまう。ライバルの風間五平は仕官の道を志し、伊賀の仲間を裏切ることになるが、裏切りは最終的に自分に帰ってくるという結末。忍びの世界から、今の時代を見れば、結局変わらないのは人と人とが騙し合い、惚れ合い、裏切りあいながらも微妙にバランスが保たれているということ。戦国の乱世においても、人と人とが織り成す人間ドラマは何ら変わることがなかったのであろうか。自分がもしその時代に生きていたとしたら、伊賀の乱波として全うな仕事をしていただろうか。いつの時代も馬鹿正直なだけでは世渡りはできないということか…。
2006.08.12
三重県伊賀市の自宅から青山高原の三角点広場まで車で約20分。距離にして17キロ。午前6時15分の青山高原には人の気配はなく、澄んだ高原の空気と朝日に照らされた山々がうっすらと青く輝いて見えた。駐車場に車を停め、走り出す。青山高原ウインドファームまで約5キロ。ゆっくり走れば30分もしない内に大きな風車がいくつも見えてくる。高さ50メートル、直径50メートルもあるその巨大な羽根が一斉に回っている。とても気持ちよさそうに、ビュンビュンと音を立てている。人間が作ったものとは思えないくらい青山高原の自然に同化してしまっているかのように。「風車を回す力は目に見えない力…」銀色夏生の詩にそんなのがあった。風そのものは目に見えないのだけれど、凄まじい力を持っているのは目に見えて明らかだ。こんな大きなものを動かす自然の力に感動してしまった。折り返して駐車場に戻り、車でまたウインドファームまで戻り、写真を数枚撮影した。こんな雄大な眺めをたった一人で満喫している。これを贅沢と言わずして何といおう。気温は20度を少し下回るくらいだろうか。静かな上に車もほとんど通らない。おまけに高原の素晴らしい眺めを堪能しながら走るなんて最高ではないか。街の中を走れば、車の排気ガス、騒音・異臭、マナーのひどいドライヴァー…に辟易するばかり。車で20分でこんな別天地にやってこれるのなら毎日でも来たいくらいだ。お盆休みの二日目、読みたかった小説を読み、昔見たビデオを鑑賞し、絵を描き、料理を楽しみ、美酒に酔いしれる。健全な引きこもりとは今の自分の生活そのもの。さあ、明日は何をしようか。
2006.08.11
「自分と未来は変えられる―他人と過去は変えられない」 高塚 猛(前ホークスタウン社長:のちにセクハラ容疑で逮捕)*******残暑お見舞い申し上げます。KAY’S WORLDKAY’S ART GALLERY
2006.08.10
Be not afraid of life. Believe that life is worth living, and your belief will help create the fact. --- William James生きることを恐れてはならない。人生とは生きる価値のあるものであるということを信じなさい。あなたがそう信じれば信じるほどそれは事実に一歩ずつ近づいていく。 ウイリアム・ジェイムズ(アメリカの心理学者・哲学者)
2006.08.09
東海中学総合体育大会新体操競技の役員として、昨日四日市まで行ってきた。会場はどこを見ても女性ばかり。90パーセント以上は女性だったように思う。色とりどりの華麗なレオタードに身を包んだ女子中学生たちが一生懸命に演技している場面を観察。団体と個人種目があり、ボールやロープ、フープを使ってそれぞれが音楽に合わせて優雅に、時には勇壮に舞っていた。フィギュアスケートや新体操はテレビでしか見る機会がなかったけれど、目の前で実際に見るのとはやはり訳が違う。個人種目を終えて会場の外に出てきた選手が、監督とコーチを前にして涙を流している。思い通りの演技ができなかった悔しさからか、嗚咽が止まらない。コーチの女性の話に「はいっ」「はいっ」を繰り返してうなずく。両手の指先をまっすぐにぴんと伸ばし、気を付けをした状態で話に聞き入っている。新体操の世界は思った以上にハードなものなのだということを実感。勤務している学校の女子中学生たちも団体演技に出場。しなやかな動きだけでなく、時には激しさも伴う。緩急のリズムが入り混じって、どんなハードな動きであっても笑顔は変わらない。全身を使って何かを表現しようとしていることが良く分かる。コミュニケーションとは言葉のみで行われるものではないということをこの時感じ取った。音楽に合わせながら五体を自由自在に動かして、その場の空気の流れに同化し、一種独特のムードを作り上げる。自分自身の生き様がその場に現れてくるのかも知れない。大切なのは、形ではなく心と魂(heart and soul)。芸術に触れることの尊さは、確か世阿弥が「花伝書」の中でも記していた。剣豪宮本武蔵が剣のみならず彫刻や絵画をも嗜んでいたのは、世阿弥との出会いがあったからでもあろう。全身を使って自分自身を表現する、これからの自分自身の課題でもある。
2006.08.08
一生に何度かは、死にそうな目を経験するのがいい。人間は時としてマゾヒスティックになることも価値がある。自分をいじめられる人は逆境でも決してへこたれない人間になるであろう。自分にとっては大学1回生の時の剣道部の夏合宿。確か9泊10日で奈良のユースホステルに泊まり、近くの体育館で練習をしていた。「運動時に水を飲むのはいけない」と教えられていた時代。外気温は30度を超えていただろう。防具をつけていたし面の中の温度は40度以上あったろうか。午前午後と3時間ずつの練習。2日おきに夜の練習2時間もあったりで、何度か意識を失いかけた。面を取って汗を手ぬぐいで拭き、麦茶をマネージャーからもらう時のあの感動は今も忘れられない。卒業後にも、自ら求めて苦しみを経験する破目になる。20代後半から30代半ばにかけて、いくつかの冒険をした。チャレンジといってもいいだろう。そのひとつはマウンテンバイクによる日本最高峰富士山登頂。低地と違い酸素が少ない高地で手ぶらで上るのもきついのに、あえて13キロの重さのマウンテンバイクを押してかついで登るのであるから酔狂なものである。今は富士山も自転車の登頂を禁止しているようだが、マウンテンバイクがこの世に登場し始めた80年代は夏になれば結構多くのサイクリストが富士山頂3776メートルを目指したものである。御殿場駅から御殿場口の5合目までは自転車で走れる舗装路がある。火山灰が堆積した登山道を最初の内は押して進むが、7・8合目以降は担ぎが必要になってくる。7合目の山小屋で一泊して体を高地に慣らしておいて正解だった。いっきに山頂を目指せばそれだけ高山病になる可能性が高くなるからだ。8合目を過ぎれば、訳もなく疲れてしまう。2・3歩歩いただけで息をぜいぜい言わせながら立ち止まり、うずくまって回復を待たなければならない。紫外線は以上に強く、サングラスをしていても目が痛いくらいだった。9合目から山頂にたどり着くまでが地獄の道のり。もうあきらめてしまおうかと何度も思わされ、他の登山客に励まされながら何とか一歩ずつ、本当に一歩ずつ前進して行った。山頂剣ヶ峰に着いた時、喜びよりはもう登らなくてもいいという安堵感に浸っていたのを覚えている。登り8時間、下りはブルドーザー道を40分で一気に駆け降りた。下りで2度ばかり転倒して火山灰の中に顔から突っ込んだ。ほんの少しだけ前ブレーキをかけたところ前輪がロックして後輪がふわっと宙に浮いて、自転車に一本背負いを食らった感覚だ。御殿場駅に戻ってきて、下界から眺める富士山の眺めはやはり日本一だった。「あの山を登った」という満足感よりも、「自分と自転車を受け入れていただいて恐縮」といった敬虔な気持ちになっていた自分が不思議だった。富士山には神様がいる、そんな気持ちにもさせられた。毎年7月には富士登山競争というマラソン大会が行われている。年齢制限で自分自身はもう参加できないかもしれないが、レースではなく単独で走って登ってみたい。50歳までにかなえたい目標である。
2006.08.07
1991年のアメリカ、1994年から1995年にかけてのカナダ、ニュージーランド、オーストラリアの旅で、小さな千代紙をウエストバッグに入れて携行していた。その千代紙を使って、出会った人々に折鶴を折ってプレゼントするのだ。ただ道を聞いただけの通りすがりの青年、アイスクリームスタンドでブルーベリーアイスクリームを買った際に、シングルスクープの値段でダブルにしてくれたお姉さん、コンビニで休憩していると、いろいろ旅のことをたずねてくれて、「良かったら家に来ないか?」と誘われて3泊もさせてくれたおじさん、キャンプ場でハンバーガーとビールをたらふく飲み食いさせてくれた家族…etc。トータルで1年近くにも及ぶこれらの旅で出会った人はざっと1000人を超える。折鶴をささっと作ってあげて、「これは平和と幸運のシンボルだから…」とひとこと添えて渡してあげる。日本のことをほとんど知らなかった人ならなおさら喜んでくれるものだ。いつか日本に行くかもしれない…なんて冗談でも言ってくれればうれしかった。言葉も文化も生活習慣も、いろんなところで違ってはいるけれど、みんな同じ地球という惑星に住む「地球人」。たった一羽の折鶴が愛と平和の象徴となって、世界をひとつにしてくれるのだとしたら…。* * * * * *ニュージランド南自慢の最南端インバカーギルのユースホステルで1994年の大晦日から1995年の元旦を過ごした。大晦日の夜には、マオリ族の女の子のグループ、イギリス人、ドイツ人、デンマーク人、スイス人、アメリカ人らが集まって、缶ビールを飲みながらそれぞれの国の歌を一曲ずつ歌った。ちょっとした国際レベルの紅白歌合戦となって大いに盛り上がった。自分は「さくら」を歌った。歌詞の内容を英語に翻訳するというサービス精神も功を奏してか、歌い終わったあとには一番盛大な拍手をもらった。* * * * * *イスラエルとレバノンではまだ争いが続いている。51年前の今日、広島では原爆が投下された。北朝鮮は核開発にいまだ余念がない。資源をめぐって、あるいは宗教をめぐって争う必要などどこにもないと個人的には思う。人が幸せになるために資源も宗教も有効利用する価値のあるべきものだとは思うけれど、血で血を洗う悲惨な争いのために利用されるのであるならば、資源も宗教も一切合財捨ててしまうべきだ。人と人が出逢う。言葉が分からなくても、気持ちが伝わらなくても、笑顔があればすべて解決できる。笑顔はコミュニケーションの始まりだ。* * * * * *旅を通じて、自分自身が感じ取った一番大切なこと、それは愛と平和の尊さ。誰にも顔があるようにひとつ名前がある。ひとつの命にひとつの名前。地球上にいるすべての人間に共通する事実。親がいて子供がいる。守らなければならない家族がいる。愛することも愛されることも同じだけ大切なのだ。* * * * * *8月は「愛と平和」を考える月間。今、愛と平和のために何ができるのか、考えてみよう。WORLD PEACE
2006.08.06
【イビチャ・オシム氏、今後の日本のサッカーについて語る】*まずはじめに:「最初にやらなければならないのは、代表を日本化させること。本来持っている力を引き出すことだ。初心に戻り、日本らしいサッカーをしようということ」 *日本らしいサッカーとは:「日本選手の特性をいかに生かせるかだ。具体的にいえば、素晴らしい敏捷(びんしょう)性、いい意味での攻撃性、そして個々のいい技術。個人の技術がチームの良さに結びついていない。それにスピード。日本はもっとスピードに乗って攻撃できるのではないかと思う」 *W杯の悲惨な結果について:「期待があったから失望があった。現実を見なければならない。楽観的になれる根拠があったのだろうか。能力以上のことを期待すると失望ということになる」 *選手を選ぶ基準について: 「大事なのはサッカーにおける動きを集中して見て、誰のまねもしないこと。できれば未来を考える必要もある」 *この4年間の日本の戦績について: 「状況が違うので比較はしない方がいい。ジーコ監督の方が状況は難しかった。日本は先進国だが、すべての分野で進んでいるわけじゃない。世界のサッカーは常に進化している。いつも追いつかなければならない」 **********個人が持つ特性(力・技術)を結集してひとつにまとめたものがチームという集団になる。今回のW杯のジーコ・ジャパンは、個々に優れたものを持っていたには違いないが、それをうまくまとめて活かすことができなかったとオシム氏は言う。「日本化させる(=Japanize)」ということばを使ったオシム氏、選手を選ぶ基準もまずは「個性」という。「誰のまねもしない」ということはあくまでもオリジナリティを大切にすると言うこと。日本は世界のサッカーレベルに追いつこうといろんなまねをしてきただけだったのかもしれない。海外組も、確かにレベルアップしているとは言え、ひょっとしたらどこかで「没個性」の状態、日本らしさを失ってきてしまっていたのだろうか。それゆえに、日本人にしかできない日本らしいサッカーをするために、初心に返る必要性をオシム氏は強調する。能力以上のことを期待することは失望につながる、とオシム氏。だが、これは「ニワトリが先か卵が先か」的な問題だ。期待されるだけの能力も身につけなければならないし、逆に期待されるから能力も身についてくるものだとも考えられる。現実を直視する中で、近づけられる最大限の理想を持つことも必要だと思うがいかがなものだろうか。未来を考える=この先どうしたいか、どうなりたいかといったヴィジョンを持つこと。その場しのぎでは何も変わらないし、自ら変えたい・変わりたいという強い意志が今から先を変えていく原動力になる。世界のトップレベルは、オシム氏が提唱しているように、今の日本に不足しているそういったものを常に希求している。そういう意味で日本も「進化する(=progress)」必要があるのだろう。追いつくだけを考えていては現実難しい。追い越す勢いを持って今から4年間精進しつづけてもらいたいものだ。「オシム氏らしさ」が日本サッカーにどういった影響を与えてくれるかが楽しみである。が、これまでトルシエ、ジーコ、オシムと続いてきたが、より日本らしいサッカーを求めるのであれば、再び日本人監督が登場するべきであろう。誰がその指揮官となるかはまだ分からないが、そうなることを切に願っている。
2006.08.05
梅雨明けからここ数日一滴も雨が降っていない。連日気温も30度を越えていよいよ夏本番。外に出る機会が多いせいか汗もよくかくし、のども渇く。夜の職員室は、昼間の陽射しで焼き付けられるため、夜になっても30度を越えている。今夜は宿直で現在事務室にいるが、2階と1階で5度ぐらいは差があるだろうか。扇風機の涼風と、窓の外からそっと入ってくる心地よい夜風だけで十分快適である。まもなく甲子園での高校野球も始まる。あちこちで花火大会や夏祭りも盛大に行われるであろう。夏と言う季節はいつもポジティヴで活気に満ちあふれている。がむしゃらに汗をかいて、心と体の中にある老廃物を一気に排出してしまいたくなるような、そんな欲求にしばしば駆られてしまう。今までとは違う自分自身を見つけ出すことができるのもこの季節なのかも知れない。好奇心のアンテナを四方八方に張り巡らせながら、新しい自分探しの旅に出かけてみよう。その気になれば、人はいつでも生まれ変われる。さあ、チャレンジしよう!冒険しよう!
2006.08.04
テニス部の大会付き添いで連日四日市へ。明日で3日目。一日180~200キロは走らないといけない。ガソリンの価格がいつの間にか急激に高騰している。三重県伊賀地区は特に高い。1リットルで145円平均。安くても140円台前半。車に乗る機会を減らさないと…。せめて、ビール・発泡酒や酎ハイの値上げだけはごめん被りたい。
2006.08.03
お盆前後に何とか6日ばかり休みが取れそうで、ひそかに海外脱出計画を立てていた。「アラスカにログハウスを建ててみよう」とか、「ハワイに別荘を買ってみよう」とか夢のようなプロジェクトも考えていた。しかし、引き出しの奥にしまっていたパスポートを引っ張り出してみると、有効期限が3年前にとうに切れていた。今から更新しても間に合わない。残念!国内のどこかに出かけるか…。と考えてみたものの、北海道に行くとして、フェリーの予約状況をチェック…「出発を考えている日は敦賀も舞鶴も満席、アウト。もっと早い時期に計画を立てておくべきだった。無計画で行き当たりばったりな行動パタンはいつも失敗ばかり。こういう生き方は人生設計で行き詰ることが多いのだ。富士山を走って登るというのもいいかも。いずれにせよ、旅や冒険は、企画段階が一番楽しいのだ。短い休みの間に読みたい本を読んで、見たい映画も見て、楽しむべきことは一度に片付けておきたい。休みが明ければ、そんなことを考える余裕もおそらくなくなってしまうだろうから。曰く、「よく学びよく遊べ」* * * * * * * *KAY’S WORLDKAY’S ART GALLERY*Summer's Greeting
2006.08.02
アンカレジ(米・アラスカ州)を6月2日に出発して、フェアバンクス経由で北極圏を突破した。その後、コールドフットという世界最北のトラックステーションのある集落で数日キャンプしたが、連日の雨にたたられる。運良く出会った親切な夫婦のピックアップトラックで自転車ごとヒッチハイクさせてもらうことにして、再度フェアバンクスまで戻ってきた。もともと計画になかった北極圏横断というオプショナルツアーでかなり精神的に鍛えられる羽目になった。タイヤが埋まるほどの泥のぬかるみでは40キロの荷物を満載した自転車を押して歩くのが精一杯。砂利混じりのでこぼこ道にハンドルを取られ転倒したり、ブルックス山脈の強烈なアップダウンの連続にヒザが泣き、さらに道中では人間と出会うチャンスはほとんどなく、巨大なグリズリーベア(灰色熊:写真左)や体重1トン近くもあるというムース(ヘラジカ:写真右下)らが僕を待ち受けていた。フェアバンクスから北へ400キロ、往路だけで十分に堪能できたこのダルトンハイウェイに別れを告げ、無事フェアバンクスに戻って来た時には「生きてて良かった!」と素直に喜べた。だが、苛酷な試練は、実はそれが始まりだったということを、その時点では知るすべもなかった。国境を越えてカナダに入る。だが、「カナダへようこそ」という看板と入国審査事務所がある以外は何もなかった。ツンドラの大地にタイガの森をくぐり抜けるように地道のハイウェイが一本走っているだけだ。カナダの都市の大半がアメリカ国境沿いにあり、カナダの人口の約9割が国境付近に集中しているという。カナダという国がいろんな面でアメリカの影響を受けているのは確かだが、この広大な原野に至っては、全くの手つかずの自然がそのまま残されているだけで、国境線が人為的に引かれただけのものだということを改めて実感した。北極圏から南に200キロほど下っただけで、まだ日が沈む「夜」を経験していない。太陽は東から西へと水平に移動する。奇妙なものだが、日が昇って沈むという「1日」という単位がここでは非常にあいまいなのだ。それに、高緯度地帯の夏は短い。その短い夏の間に様々な生き物が一度に現れては消えていく。春と夏と秋がほぼ同時にやってきて、1年の半分近くが雪と氷に閉ざされた世界となる。「四季」のある温帯育ちの人間には、昼だけ、あるいは夜だけが何ヶ月も続く世界などというのはどうも想像しがたい。グリズリーベアを生まれて初めてまのあたりにしたのは、クルアニー国立公園内に入ってからのことだった。約30メートル前方に、体長約2.5メートルの大きな茶色いかたまりがハイウェイをのそのそと横断して、道端の茂みで何か食べ物を探しているようだった。幸いこちらには気づいていないようだったが、もし時速50キロものスピードで追いかけられたりでもしたら、約40キロの荷物を積んだ我が愛車MUSASHI号では逃げ切れるわけがない。どうしていいのか分からず、じっとその場に立ちすくんでいたものの、なすすべもなし。ありがたいことに、後ろから中年ドライヴァーのワゴン車がやってきてくれて、しばらく車の陰に隠れさせてもらえないか頼んでみた。「熊なんてこの先にゃまだまだたくさんいるよ」とは彼の弁。後にも引けない、かと言って、この道を進まなければユーコン準州の州都ホワイトホースにはたどり着けない。恐怖と冒険心とが自分の胸中で複雑に葛藤する一方で、グリズリーベアは相変わらずのんびりと草むらで何かモグモグとやっていた。
2006.08.01