呼び込むもの? 訪れるもの? 「幸せ」は。
茶柱が立つと縁起がいい。。。朝いただく日本茶に茶柱が立つとささやかだけど、いい感じの気持ちで一日が始められたものです。何となくにこにこして、挨拶の声もいつもより明るくなって、こちらがそんな風だと、周りにも伝播するでしょ。それは、また自分に返ってくる。そう、まるで合わせ鏡のように。ささやかなことでも、良いことが少しずつ重なっていくと、なんだかとってもいい一日だったなぁと夜眠りにつくときに感じるもの。「いい気持ちで一日を始めることができる」これって、かなり大切なことなのかもしれませんね。ただ、急須に目の細かい茶漉し網が張られるようになってから、茶柱は縁遠くなりましたよね。きれいなお茶が入るけど、茶柱が立たないお茶。もしかしたら、日本人の幸福感増幅に水をさしているかもしれませんねぇ。。。 中国茶には、飲杯に直接茶葉を入れて湯を注ぐ淹れ方も多く、茶葉によっては、かなり見事な茶柱が立つのですよ。 特大でしょう。といっても、日本茶の茶柱の多くが茎であるのに対して、こちらは葉っぱ。それも、芽の部分なのですよ。これは、白毫銀針(はくごうぎんしん・パイハオインヂェン)というお茶です。浅い春の頃、茶樹の最初の太い芽を摘んで作られるのです。中国茶の分類では、白茶と呼ばれるものになります。白茶は、茶樹から摘んだ葉っぱを日光などにさらして自然に萎えさせ、ごくごく弱く発酵させたお茶のことです。この白毫銀針も、太陽が昇る前に摘まれ、風通しのよい場所で、春の、まだ弱く柔らかな日差しにさらして作られるのです。茶葉は、全身、白毫、すなわち白い産毛で覆われています。そして、それが名前の由来に。 こうして、お茶を淹れる前の茶葉を見ていても、緑の葉と輝く産毛が、とても、とてもきれいだなぁって思いますが、お茶もまた、素敵なんです。上の茶柱の写真の拡大ですが、 きらきらと、細かな産毛が舞っています。これは、夜、白熱灯の灯りの中での写真なので、お茶の水色は伝わりませんが、薄い、ごく薄い黄色をしています。あまりにも薄いので、茶葉の色を映したように、緑がかった透明なお湯にも見えます。澄んだお湯の中で茶葉が浮かんでは、またゆっくりと沈み、だんだんに摘まれたばかりのような瑞々しさを取り戻し。。。その周りで、光る産毛が踊る様子は、時間を忘れて見入らせるものがあります。一般に白茶は、熟れる前の果実の香りに喩えられますが、このお茶は、どこか緑茶のような青みと、香ばしいほっくりとした甘やかな香りがします。青々しい栗の花。それを連想させるのです。萌芽の持つ鮮烈さが、茶葉の柔らかな発酵が作り出す香りとあいまって生まれたような、爽やかでありながら芳醇、そしてやさしい甘さ。微かな印象がいくつも重なったような、様々な味わいを持つお茶なのです。見つめつつ、味わっていると自分を取り巻くものをポジティブに見つめられる自分へリセットされる気がします。 「ポジティブ」なこと。。。「幸せ」って、自分からどんどんなることができると思います。「茶柱」ひとつでさえも、きっかけになると。(もちろん、同じように「不幸せ」にもどんどんなってしまうこともできてしまって。なら、「幸せ」なる方への連鎖を選ぶ)単純すぎるかもしれませんね。でも、私はそう思うのですよ。「人間(じんかん)合わせ鏡」、そんなふうに言っても良いかなって。そう、思うのです。