鴨長明 - 自由のこころ(感想)
これまで鴨長明の名は、かなりの長きにわたってよく知られてきましたが、その像は、なかなかひとつに結ばれませんでした。 ”鴨長明 - 自由のこころ”(2016年5月 筑摩書房刊 鈴木 貞美著)を読みました。 ”方丈記”で知られ数寄の語で語られ、これまで必ずしも明らかにされてこなかった鴨長明像を具体化する試みをしています。 その生涯を仏教や和歌の側面から解釈をしなおし、真の自由ともいえるその世界観が形成された過程を追っています。---------- ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。---------- 鈴木貞美さんは1947年山口県生まれ、東京大学文学部仏文科卒業、東洋大学文学部専任講師、助教授を経て、1989年国際日本文化研究センター助教授、教授を務めました。 長いあいだ、”方丈記”に自分でも不思議なほど関心を抱いてきたといいます。 はっきりしているのは、あの流れるようへ変化に富み、それでいて、よく整った文体の魅力に惹かれるからだそうです。 日本語の文章の歴史のうえで、あれほど画期的な役割をはたした文体はありません。 それはどのようにして可能になったのか、もう一歩踏み込んで考えることができると思ったそうです。 鴨長明の名は、長きにわたって広く知られてきましたが、近代に入っても著作の範囲も定まらず、とりわけ仏教信仰をめぐって今日でも決着がついたとは言い難いです。 そこで、長明作であることが疑いない”方丈記””無名抄””発心集”の三作から、新たな長明像の提出に挑んでいます。 自由のこころという副題を付けています。 自由とは読んで字のごとくおのずからよしとすることであり、長明の場合、自適をあわせ、束縛を嫌い、自身にしっくり感じられることを求める心があったからです。 古代、自由の語は謀反や叛逆の含意が強かったのですが、室町時代に、武家や高位の武士に禅宗が浸透しました。 そして、仏教でいう釈迦の自由自在が兵法などを自在に駆使することに転じ、やがて何につけても、型から入って型を抜け自在さを獲得することを目指すようになりました。 自由の概念が大きく転換する門口のところで、数寄の根方とでもいうべきものが養われていきました。 長明は、1155年に賀茂御祖神社の神事を統率する禰宜の鴨長継の次男として京都で生まれました。 高松院の愛護を受け、1161年に従五位下に叙爵されましたが、1172年頃に父・長継が没した後は後ろ盾を失いました。 1175年に長継の後を継いだ禰宜・鴨祐季と延暦寺との間で土地争いが発生して祐季が失脚したことから、長明は鴨祐兼とその後任を争うが敗北しました。 和歌を俊恵の門下として、琵琶を楽所預の中原有安に学びました。 歌人として活躍し、1201年に和歌所寄人に任命されました。 1204年に河合社の禰宜職を望みましたが、賀茂御祖神社禰宜が長男の祐頼を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず神職としての出世の道を閉ざされました。 長明は出家し、東山次いで大原、のちに日野に閑居生活を行いました。 1211年に飛鳥井雅経の推挙を受けて、将軍・源実朝の和歌の師として鎌倉にも下向しましたが、受け入られず失敗しています。 公家の世が衰退し、武士の台頭がはじまる変動期に生涯を過ごし、京の都が度重なる災害によって衰退し、多くの人が飢饉などで死んだ時代に生きました。 小さな住まいでの静かな暮らしを望み、その心情の移り変わりを記し、4年後の1216年に61才で没しました。序 ゆく河の流れは/第1章 鴨長明―謎の部分/第2章 長明の生涯―出家まで/第3章 『無名抄』を読む/第4章 『方丈記』―その思想とかたち/第5章 『発心集』とは何か/第6章 歿後の長明