「東北のハワイ」はなぜV字回復したのか-スパリゾートハワイアンズの奇跡(感想)
“東北のハワイ"をコンセプトにするスパリゾートハワイアンズは、常磐興産株式会社が経営する大型温水プール・温泉・ホテル・ゴルフ場からなる大型レジャー施設です。 温泉を利用した5つのテーマパークがあり、スプリングタウンは水着を着用して楽しめ、打たせ湯、オンドル、ミストサウナ、ボディシャワーなどで構成されています。 ”「東北のハワイ」はなぜV字回復したのか-スパリゾートハワイアンズの奇跡”(2018年3月 集英社刊 清水 一利著)を読みました。 東日本大震災の影響で利用客が2011年度は38万人に激減したものの、翌年度140万人2013年度150万人とV字回復しました。 その福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズの秘密を、解き明かそうとしています。 温泉浴場パレスは裸で入浴する大浴場で、960平米の大浴場で12種24浴槽の温泉施設です。 スプリングプラザは幅20米、高さ3米の滝が印象的な広場です。 江戸情話・与市は浴場面積1,000平米、江戸時代の雰囲気がある世界最大の大露天風呂で、ギネス・ワールド・レコーズに認定されました。 宿泊施設は、ホテルハワイアンズ、モノリスタワー、ウイルポート、クレスト館です。 ゴルフ場はスパリゾートハワイアンズゴルフコースで、3コース・27ホールです。 清水一利さんは1955年生まれのフリーライターで、PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰しています。 2011年3月11日、新聞社の企画でスパリゾートハワイアンズを取材中に東日本大震災に遭遇し、スタッフや利用客らとともに数日間の被災生活を強いられた経験があります。 スパリソートハワイアンズは、東京から約200キロ離れた福島県いわき市にあり、前身は、まだテーマパークという概念がなかった1966年にハワイをテーマに誕生しました、 その名も懐かしい常磐ハワイアンセンターです。 もともといわき市には大きな探鉱がありましたが、1950年代後半に炭鉱産業の斜陽化が表面化しました。 そして、1964年に常磐湯本温泉観光株式会社設立、1965年に常磐音楽舞踊学院設立、1966年に常磐ハワイアンセンターがオープンしました。 高度経済成長を遂げる日本に於いて、1964年に海外旅行が自由化されたものの、庶民には高嶺の花という時代に、東京方面から多くの観光客を集めました。 大型温水プールを中心にした高級レジャー施設として、年間120万人強の入場者を集たのです。 年間入場人員は1968年には140万人を突破し、1970年には155万3千人となりピークに達しました。 しかし以降は、入場人員は日本の経済状況に合わせて減小し、1975年には年間110万人にまで落ち込みました。 1976年はやや入場人員が増加したものの、1977年以降は年間100万人から多くても年間110万人程度で横ばい状態が続きました。 1984年に初めて営業赤字を計上しましたが、1988年に常磐自動車道がいわき中央ICまで全線開通し、首都圏から一気に来場者が増え、年間140万人超まで増加しました。 これを機に総事業費50億円をかけてリニューアルを始め、1990年のオープン25周年を機にスパリゾートハワイアンズに改名して、スプリングパークをオープンしました。 同年および翌1991年は年間140万人超の入場人員がありましたが、バブル崩壊で1992年には年間120万人台にまで減少しました。 1994年には年間110万人前後となり再び営業赤字を計上しましたが、1997年に日本一の大露天風呂をオープンして年間120万人を回復しました。 これまでの、ハワイ、南国というコンセプトに加え、屋内プールや温泉を備えた施設が美白を求める女性の需要に合致しました。 さらに、東京や仙台などからの無料バスによる送迎サービスを行うなど、集客努力が功を奏したものと考えられています。 2000年にアクアマリンふくしまが開館して人気施設となり、いわき市内で回遊性が生まれました。 2005年には、常磐ハワイアンセンター時代の1970年以来の年間利用者数150万人を達成しました。 2006年には映画”フラガール”が全国公開され、翌2007年には過去最高の年間161万人の入場を記録しました。 そしてあの東日本大震災が起きた2011年3月11日に、著者はある新聞社の仕事で生まれて初めてハワイアンズを訪れていました、ということです。 東京に帰れなくなった被災者の一人だったのでした。 あの日を境に、東北の状況は至るところで大きく変わりました。 それは、スパリソートハワイアンズももちろん例外ではありませんでした。 入場者数、当期利益とも激減して、会社始まって以来の危機といってもいい事態に陥りました。 当時、このままでは施設も会社も存続できないかもしれないという不安にとらわれましたが、ハワイアンズは不死鳥のように蘇ったのです。 映画でも有名なフラガールは、スパリゾートハワイアンズ・ダンシングチームです。 ウォーターパーク内常設会場ビーチシアターにおいて、ほぼ毎日、公演が昼夜1回ずつ行われています。 このフラガールによる全国きずなキャラバンは、震災の1か月半後かいわき市内の避難所からスタートしました。 かつてまだ風当たりが強かった50年前、初代のフラガールたちは、崩れゆく炭鉱社会と家族の生活を、自分たちの手で何とかしなくてはいけないと頑張ったのです。 同じように、平成のフラガールたちも、未曽有の大地震と原発事故で危機に直面した故郷を目の当たりにして、今こそ自分たちか立ち上がらなくてはならないと思ったのでしょう。 全国きずなキャラバンの成功を受け、震災後もフラガールは地元いわきや福島のみならず、東北復興のシンボルとして全国区の人気を集めました。 開業以来、50年を超えた今もなお、同施設は各種の温泉や温水プール、フラガールのショーなどが楽しめる人気のリゾート施設です。 ハワイアンセンターがオープンし、初年度から予想を上回る大成功をおさめるとすぐ、全国には類似の施設がいくつもできました。 しかし、それらはすべて2、3年のうちに経営が行き詰まり、まもなく消えていきました。 そんな中、ハワイアンズだけが今日まで変わらず生き延びることができたのは、いったいなぜなのでしょうか。 この施設の何が人々をこれほどまでに惹きつけ今も人気になっているのでしょうか、そして、常磐興産は、その人気を維持するためにどんな努力をしてきたのでしょうか。 幾多の危機や試練を乗り越えることができたのには、二つの大きな要因があります。 一つは、常磐炭礦時代の一山一家の精神が社員の中に息づき、探鉱代を超えて辛苦に打ち克つ力になっていたことです。 ハワイアンズに関わってきた人間たちが、誰一人ぶれることなく一山一家の考えを貫いてきました。 もう一つ、絶対に忘れてはいけないのは、会社を率いるトップの決断力です。 経営が安定している企業、危機に見舞われても立ち直ることのできる企業は例外なく、強い統率力で社員を引っ張るトップの存在があります。第1章 3・11からのV字回復/第2章 創業者の経営哲学/第3章 追い風と逆風/第4章 東北復興の未来戦略/第5章 「生き延びる企業」とは?/終章 「進化した一山一家」を目指して