里見義尭(感想)
里見義尭=さとみよしたかは1507年に里見実尭の子として生まれ、字は権七郎といい、のち入道して岱叟正五と号しました。 庶家ながら、1534年に北条氏の支援を得て義豊を滅ぼし、嫡家から家督を奪いました。 1537年に北条氏と手切れし以後40年におよぶ対立を続け、上総へ進出してからは久留里城を本拠として、三浦・下総へも進出して勇名をはせました。 ”里見義尭”(2022年8月 吉川弘文館刊 滝川 恒昭著)を読みました。 安房・上総を基盤に庶家に生まれながらも一族の内乱に勝利し、家督を継ぎ里見氏の最盛期を築いた、戦国大名の里見義尭の生涯を紹介しています。 上杉謙信と組んで北条氏と攻防を繰り返し上総支配を固め、戦国大名として里見氏を発展させました。 滝川恒昭さんは1956年千葉県生まれ、1999年に國學院大學大学院博士課程前期を修了しました。 千葉県公立高等学校教員を経て、現在、千葉経済大学非常勤講師を務めています。 里見義堯は安房里見氏の第5代当主の安房の戦国大名で、父親は里見実堯、母親は佐久間盛氏の娘です。 幼名は権七郎といい、官職は刑部少輔で、正室は土岐為頼の娘、子に義弘、堯元、堯次、義政がいます。 いまの千葉県南部から中央部にあたる安房・上総の二ヵ国を基盤に、子息義弘とともに戦国大名里見氏の最盛期を築きました。 中国地方の戦国大名毛利元就、大内義隆などとほぼ同時代の人で、関東で関わりのあった大名では、北条氏康より8歳、武田信玄よりは14歳、上杉謙信よりは23歳年長です。 1533年7月に、里見氏の家中で内紛が発生し、後北条氏と通じていた父実堯が従兄の本家当主義豊に殺されました。 これは稲村の変とか天文の内訌とか言われ、義豊が叔父の里見実堯を殺して家督を奪ったため、実堯の子の里見義堯が仇討の兵を起こして、義豊を討ったとされています。 ですが、近年の里見氏研究によって、これまでの伝承と史実が全く正反対であることが明らかになったといいます。 実堯・義堯父子が仇敵である北条氏綱と結んだクーデターの動きに、義豊が対抗しようとした動きであったと考えられています。 氏綱の軍を借りてクーデターに成功しましたが、真里谷信清が死去して真里谷氏で家督をめぐる抗争が起こると、義堯は真里谷信応を、氏綱は真里谷信隆を支持したため、氏綱と敵対関係になりました。 しかし義堯は関東に勢力を拡大していた氏綱に単独で挑むことは難しいと考え、小弓公方の足利義明と同盟を結んで対抗しました。 そして、1537年に真里谷信隆を攻めて降伏させました。 1538年の第一次国府台合戦で義堯も戦闘に参加しましたが、大将は足利義明であったこともあって、里見軍の主力はあまり積極的に戦いませんでした。 結果として、義明の戦死は義堯にとって関東中央部への飛躍の機会となりました。 義明の死後、義堯は味方側であった下総や上総に積極的に進出し、上総の久留里城を本拠として里見氏の最盛期を築き上げました。 1552年に、北条氏康の策動によって、里見氏傘下の国人領主の離反が発生しました。 1554年に氏康と今川義元、武田信玄との間で、三国同盟が締結されました。 氏康は1553年4月より北条綱成や北条氏尭を派遣して、毎年のように房総半島に侵攻して、沿岸の金谷城や佐貫城を攻略しました。 1555年には、上総西部のほとんどが後北条氏に奪われることになりました。 この事態に対して義堯は北条方についた国人勢力の抵抗を鎮圧し、奪われた領土の奪還を図りました。 越後の上杉謙信と手を結び、太田氏・佐竹氏・宇都宮氏等と同調して、あくまで氏康に対抗する姿勢を見せました。 1556年には里見水軍を率いて北条水軍と戦い、三浦三崎の戦い勝利しました。 1560年に氏康が里見領に侵攻して来ると、義堯は久留里城に籠もって抗戦し、上杉軍の援軍を得て勝利し、反攻を開始して上総西部のほとんどを取り戻しました。 1562年に剃髪し入道して、家督を子の義弘に譲って隠居しましたが、なおも実権は握り続けていました。 1564年に北条方の太田康資の内通に応じて、義堯は義弘と共に敵対する千葉氏の重臣高城胤吉の勢力圏にあった下総の国府台に侵攻し、北条軍を迎え撃ちました。 緒戦では北条方の遠山綱景・富永直勝を討ち取りましたが、翌明け方に氏康の奇襲と北条綱成との挟撃を受け、重臣正木信茂が討死し、第二次国府台合戦に敗戦を喫しました。 これにより義堯・義弘父子は、上総の大半を失い安房に退却し、里見氏の勢力は一時的に衰退することとなりました。 しかしその後、義弘を中心として里見氏は安房で力を養い、徐々に上総南部を奪回しました。 1566年末頃までに、久留里城・佐貫城などの失地は回復しました。 これに対し上総北部の勢力線を維持していた後北条氏は、佐貫城の北方に位置する三船山の山麓に広がる三船台に砦を築き対抗しました。 1567年8月に、義弘の率いる里見軍は三船台に陣取る北条軍を攻囲しました。 北条氏康は嫡男氏政と太田氏資らを援軍として向かわせ、別働隊として3男氏照と原胤貞を義堯が詰める久留里城の攻撃へ向かわせました。 これに対し義堯は守りを堅固にし、義弘は正木憲時と共に佐貫城を出撃して、三船台に集結した氏政の本軍を攻撃して討ち破りました。 水軍の指揮を取り浦賀水道の確保に当たっていた北条綱成は、三浦口より安房へ侵入しようと試みましたが、里見水軍と菊名浦の沖合いで交戦して損害を出しました。 これらの情勢により、水陸から挟撃される危険を察知した北条軍は、全軍が上総から撤退することとなりました。 この三船山での勝利により、里見氏は上総の支配に関して優位に展開し、下総にまで進出するようになりました。 その後も北条氏に対しては徹底抗戦の姿勢が貫かれましたが、義堯は1574年に久留里城にて享年68歳で死去しました。 里見氏の存在自体はいまもよく知られています。 それは江戸時代後期の大ベストセラー、曲亭馬琴「南総里見八犬伝」の影響によるものです。 「八犬伝」は、いまなお歌舞伎・演劇・映画・テレビの題材のみならず、その全体構図や登場人物は姿や形を変えて、アニメ・ゲームといった多様なジャンルのストーリーやキャラクターとして再生産され続けています。 したがって、いま一般にイメージされる里見氏像といえば、「八犬伝」をペースにしたものに、江戸時代以降の人々の想像や願望で作られた系図一軍記などの物語の要素が加味されました。 これはさまざまな事情が積み重ねられて出来上がった、まったく虚構の姿となっていますが、反面、里見義尭の存在はもとより、戦国大名里見氏の正確な歴史はほとんど知られていません。 これまで大野太平さんや川名登さんなどによって、房総里見氏の歴史を解明し、架空の物語によって刷り込まれた虚像を拭い去り、史実に基づいた里見氏の歴史像を描こうとしてきました。 本書もこの路線を継承するなかで、里見義尭の生涯と人物像、さらにその時代を、史料に即して描こうとしたといいます。 しかし、房総里見氏初代とされる義実から義豊まで数代あったはずなのに、その関係史料もほとんどといってよいほど残っていません。 また、義尭は本来なら里見家家督にも、ましてや歴史に名を残すようなことはなかったはずの人物です。 ですが、一族内の権力闘争から発展した内乱の最終的な勝者となって、歴史の表舞台に登場し、以降この義尭を祖とする系統が里見氏の嫡流となりました。 それだけに後世の里見氏継承者からも、義尭はまさに特別な存在として後々まで意識されました。 そのようなことから、義尭が滅ぼした嫡流の系統を前期里見氏、義尭以降の里見氏を後期里見氏と分けて考えることを提唱したといいます。はしがき/第一 義堯の誕生と房総里見氏/第二 天文の内乱と義堯の登場第三 政権確立と復興/第四 小弓公方の滅亡と北条氏/第五 江戸湾周辺に生きる人々/第六 上杉謙信の越山と反転攻勢/第七 第二次国府台合戦/第八 混沌とする関東の争乱/第九 策謀渦巻く関東情勢/第十 義堯の死とその影響/第十一 その後の里見氏)/あとがき/里見家略系図/略年譜 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【新品】里見義堯 滝川恒昭/著里見義堯 北条の野望を打ち砕いた房総の勇将【電子書籍】[ 小川由秋 ]