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テーマ:今日の終わりに(56)
カテゴリ:つぶやき
バグワン・シェリ・ラジニーシが教えてくれたこと。
われわれは、自分自身や、世界そのものを見ていないという。 自分や世界だと思っているものは、実は、自分観であり世界観だという。 われわれは、多かれ少なかれ自分や世界についてイリュージョンを抱いているというのだ。 そして、イリュージョンを影で支えているものがオクリュージョンというものだという。 オクリュージョンとは意識から遮断されている自分や世界の姿だ。 時として、自分のオクリュージョンが意識に浮上することがある。 それまで見えていなかった側面に光が当たり、突きつけられるのだ。 それまで、当たり前だと思っていたものが、実はそうではなかったことに気づかされる。 当然、それは受け入れがたいことである。 そのプロセスは、喜びよりも苦痛の方が大きい。 オクリュージョンとは、深層心理学で言うところのコンプレックスに対応するものであろう。 昨夜、ちょっとしたことをきっかけに(TVを観ていただけ)、自分のオクリュージョンが浮上した。 わたしは、自分が情けなく、悲しくなってしまった。 歌を唄って泣こうと、そのとき浮かんだのは中島みゆきである。 『歌をあなたに』や『泣きたい夜に』などを唄って精神を落ち着かせた。 オクリュージョンを、そのままそっとそこに置いておく事は簡単だ。 しかし、いずれ、それは日常の生活に触発されて顔をもたげてくる。 それは生きづらさを演出しているものだし、人は時に応じて成長していく存在だからだ。 日常の生活に添いながらそれをその場で開放することも出来る。 歌を唄うことはわたしにとっての一つの方法だ。 それによって、どれ程のものが開放されるかは分からない。 けれど、自分の感情に触れることが出来るし、カタルシスも起こる。 自分の創作へと繋がることもできる。 そうしてわたしは、乗り切っている。 そのあと、昔のLP『親愛なる者へ』というアルバムを引っ張り出してきた。 このアルバムには、中島みゆきからリスナーへのストレートな自筆の手紙が載っている。 わたしの知る限り、それは最初で最後の試みだったように思う。 その後は、また「歌でしか言えない」ということになってしまったようだ。 その手紙を、ここに挙げることは出来ない。 ただ、そのメッセージは、ひとりぼっちで沈んでいる人にしっかりコンタクトをとっている。 名のある誰々へ、ということではなくて、同じ夜を迎えているすべての者へだ。 それが「親愛なる者へ」なのだ。 この「親愛なる者へ」というスタンスは、たとえばこのブログ社会でのわたしの接し方の原点にもなっているものでした。 … ~~~ たとえばあんたも ひとりぼっちなら、 あたしはきっと そうやって あんたに 手を出すよ。 きっと そうやって 本気で あんたに手を出す。 わかるかい。 親愛なる者へ 中島みゆき … お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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