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カテゴリ:日本と古代ヘブライの関係
▲葵:うーん、なんて真ん丸い顔なんだ・・・。 ▲よくみれば、透萌(ともえ)が奥で、背後霊のように笑ってんですけど、何か? この前、レイキで探し物が見つかったということを書きました。 おとといは、家にいるとき、透萌が、人形の靴がな~~い、と騒ぎだしました。 妻にも、10秒で見つかったと言いふらしていたものですから、 「あ、そうだ、レイキは?」と言われ、 「じゃあやってみようか?」と言い、 両手をあげて、「靴が見つかります」と言い、 第4シンボルを描いて、次に第3シンボルを描こうとした直前でした。 「あった!!」と妻が、一言。 妻が見つけてくれました。 シンボル全部描き終わる前なので、どういったらいいのか、「1秒」としておきましょうか…(^^; これは、たまたまという感じもありますが、 すかさず、 「ほらね! レイキの効果だよ!」と言っときました(^^; でも、私はシンボル描いただけで、何もしてないんですが…。 まあ、良しとしましょう。 と、いうことで、本題へ! (何が、「と、いうこと」なのかよく分かりませんが。。。) ★いつのまにか、ヤマトタケルノミコト編?★ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ●「古代イスラエルの三種の神器」=「日本の三種の神器」!! ●「十戒の石板」=「八咫鏡(やたのかがみ)」 ●「マナの壷」=「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」 ●「アロンの杖」=「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」 ●スサノオ命の八岐大蛇退治=天叢雲剣 ●ヤマトタケルノミコトの東征=草薙の剣 ▼ヤマトタケルノミコトの物語(古事記より) 1 景行天皇・成務天皇 2 倭建の命の西征(熊曾征討) 3 出雲建 4 倭建の命の東征(蝦夷征討) 5 白鳥の陵(倭建命の死) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ★「倭(わ)」→「大和(やまと)」→「日本」への変遷★ 前回も述べたように、ヤマトタケルノミコトの表記が、 古事記では「倭建命」であり、日本書紀では「日本武尊」となっているのが、気になります。 また、「倭(やまと)」は、もともと「倭(わ)」と言われていました。 「倭」というのは、言ってみれば、今でいう中国の人々が、日本のことを呼んだ蔑称です。 「倭(わ)」が、いつしか「倭(やまと)」と呼ばれるようになります。 ただ、「やまと」とは、本来、「大和」という漢字に当てた読みです。 それが、いつしか「倭(わ)」も「倭(やまと)」という読みに変遷していったと思われます。 「倭(わ)」から「大和(やまと)」へ。 「大和(やまと)」とは、「大和朝廷」の「大和」であり、「倭(わ)」とは別の国、あるいは民族になります。 これについては、『「大和(ヤマト)民族」の正体』でも述べましたが、 「倭(わ)」とは、言わば日本の原住民といわれる人たちのことを指すと思われます。 つまり、「縄文人」であり「弥生人」となり、 「古事記」のヤマトタケルノミコトの部分などを見れば、「熊襲」「出雲」「蝦夷」といった人たちであり、 大和朝廷成立の前、主に西日本を制していたと思われる「邪馬台国」連合であり、もうひとつの巨大勢力であった、「狗奴国(クナコク)」の人たち、ということになるのでしょうか。 そして、「大和民族」とは、中近東をルーツとする「直系のヘブライ人」であり、ユーラシア大陸のステップロードを経由して朝鮮半島へ流入し、さらに、海を越えて日本列島にやってきた「騎馬民族」ということになります。 彼らが、天皇を中心に「大和朝廷」を打ち立てたと思われます。 彼らとは「直系ヘブライ人」であり、もっと言えば、世界史において大きな謎となっている「失われたイスラエル十支族」の末裔ということになります。 そして、「大和(やまと)」から、やがて、「日本」という国名になります。 つまり、「倭(わ)」から「大和(やまと)」へ、そして「日本」への国名の変遷です。 これについて、中国の歴史書が触れているものがあります。 ★「旧唐書(くとうじょ)」と「新唐書(しんとうじょ)」★ 中国の歴史書に、「旧唐書(くとうじょ)」と「新唐書(しんとうじょ)」という書物があります。 『失われた10支族「神武天皇」の謎』(三神たける・飛鳥昭雄)を参考に、以下見てみます。 まずは、「旧唐書」の記述から。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にあるをもって、ゆえに日本をもって名となす。あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ここでは、はっきりと、「日本国は倭国の別種なり」と、「日本」と「倭国」が別の国であることを、書き記しています。 これは、日本の書物ではなく、「中国の歴史書」です。 つまり、中国は、「倭」と「日本」を別の国であると、認識していたことになります。 ここは、本書で指摘されているように、非常に重要だと思います。 そして、驚くべきことに、日本は、旧小国、つまりもともと小さな国であったが、倭国を「併せる」、すなわち、「併合した」と記されています。 「倭」は、「日本」に支配権を奪われたということになります! そして、問題はもうひとつの「新唐書」です。 「旧唐書」とは、逆になっています。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「倭の名を憎み、改めて日本と号す。使者自らいう。 国、日の出ずる所に近し、ゆえに名となす、と。 あるいはいう、日本はすなわち小国、倭の併すところとなる。ゆえにその号を冒せり、と」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こちらは、「日本」が小国である、ということは同じですが、「倭(わ)によって併せられた」という部分が、全く逆です。 つまり、「日本」は、「倭」によって支配されたといいます。 だから、「倭」は、「日本」という国名にしたと。 しかし、指摘されているように、考えてみればおかしなことです。 もし、「倭」が「日本」を支配したのなら、「倭」が、わざわざ、負けた国である「日本」の国名を、使うでしょうか? このふたつの歴史書を見る限り、「旧唐書」の方が、正しいようです。 素直に考えれば、本書で指摘されているように、「倭国」から「日本」へ国名が移り変わったということは、 「日本」が、もともと小国で、「倭国」を併合した。だから、「倭」は、「日本」という国名になった。 という考えが、一番スッキリします。 少し長いですが、一番的を得た部分だと思うので、同書より、引用します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「まず、大前提として、倭国とは、そもそも日本列島全体を意味する名称だ。北海道と本州、四国、九州にあった国々の総称である。 それに対して、日本は、全く違う国として独立して存在した。 大きさということからすれば、倭国に比べ、圧倒的に小さい国であった。 どこに日本があったのか別にして、とにかく小国の日本は、大国の倭国と戦いをした。 その結果、勝ったのは日本。倭国のすべてを併合という形で征服した。 小さい国が大きな国に勝ったのは、圧倒的な軍事力を持っていたことを意味する。 当時、倭国は農耕国家であった。 その倭国を征服するために、もっとも有効な軍事手段といえば、それはいうまでもなく、騎馬軍団である。 騎馬軍団を率いていたからこそ、日本は倭国を征服することができた。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 最後に整理してみます。 「倭(わ)」とは、日本の地にそれまで住んでいた人々になります。 一方の「大和(やまと)」とは、「大和朝廷」を成立させた「大和民族」であり、その中心勢力は、大陸からやってきた「騎馬民族」。 彼らは「直系ヘブライ人」であり、「失われたイスラエル十支族」の末裔。 その後「大和(やまと)」から、「日本」へと国名が、さらに変わっていきます。 「ヤマト」は、「ヤ=絶対神ヤハウェ」+「ウマト=民族」から成る複合語。 すなわち「ヤマト」とは「神の民族」を意味するヘブライ語。 より正確に言えば、ヘブライ語の方言「アラム語」からきています。 では、「日本」という国名は? 「日本」は「ニッポン」あるいは「ニホン」と読めます。 これも、ヘブライ語で実は読み解けることが、同書に記されています! また機会があれば、この説も紹介したいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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≪…光透波…≫は、数の言葉ヒフミヨ(1234)を思い起こさせる。
大和(矢的)で、いろは詩とひふみよ詩の和平(矢的)で、[ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、と、]に・・・ ひふみよいむなやこと の源流は、縄文岩偶(十腰内遺跡)に想う・・・ 縄文文様から、ひふみよいむなやこと の『幻のマスキングテープ』あり。 この物語の風景は、2冊の絵本で・・・ すうがくでせかいをみるの もろはのつるぎ (有田川町ウエブライブラリー) (July 29, 2023 10:19:55 AM) |