小説西寺物語 43話 粗製乱造と決別 「京都仏像美術大展覧会」開催へ・京都不粋大学
小説西寺物語 43話 粗製乱造と決別 「京都仏像美術大展覧会」開催へ・京都不粋大学 西寺官主守敏僧都は都の人口が増えるとともに都市部でも一地域に一寺院は必要と寺の建立が増えてきた。金を出すのはその地域の大店で大店が立ち並ぶ朱雀大路、四条大路に面した町内らは寺の豪華さまで競い合うことが町内の団結を生み、火の用心やドブ掃除までが自主的に行なわれ防犯にも役に立っていた。(この町内の団結こそがその後、疫病が都やその周辺で流行った時の疫病退散の祇園祭になる) また公卿や高級貴族の間にも私寺を持つ競争になり、その寺院の住職の人選まで従六位の守敏僧都に依頼が殺到していた。僧侶の人選はともかくその寺の仏像は寺が建立されてその寺に派遣された住職が御本尊の仏像と種類を選びその住職が奈良の仏像工房や仏壇工房にまで買いに行くが、ここで仏像、仏壇工房と住職の間で賄賂、闇取引が行なわれ空海が指摘する「粗製乱造」された仏像や仏壇が高値で取り引きされていた。 この住職の収入は衣食住は村が保証しているが、やはり坊主も人の子、たまには贅沢はしたい。現金収入としては村民の葬儀に命日の法事などのお布施。戒名を考えて授与するがあるが、これ以外には寺の仏像や農家の仏壇、墓石、戒名の位牌を掘る仏具店からの口利き料が入る。これは奈良仏教、比叡山仏教とも古くからある寺の経済活動として認めていた。 とはいっても山深い過疎の寺と都会の大店の檀家を数軒持つ寺とでは月とすっぽんほどの収入の格差がある。さらに寺の御本尊も裕福な寺では大きな立像となり、この大きささえ競い合うということが当たり前のごとく流行っていた。一方、過疎の村の寺の御本尊はどこの誰が掘ったか分からない粗末な仏像に村民が手を合わせていた。これこそ、比叡山仏教と奈良仏教の仏への裏切と冒涜であると空海はいうが、守敏僧都は仏教を信じていれば粗末な仏像でも願いは仏に通じると意見は違うが、やはり粗製乱造の仏像は問題だと思っていた。 守敏は奈良近郊に散らばっている仏像、仏壇、仏具の工房約50工房を都に集めて「仏像、仏壇工房団地」の構想を嵯峨天皇に願い出ていた。さらに全国から陶器の窯元を都に集めた「陶器工房団地」の構想も願い出ていた。このどちらも都の人口が爆発的に増えていて生産が需要に追い付かないので「粗製乱造」がまかり通っている。仏像仏壇も陶器もこれから先1000年後にも評価され残る美術品、芸術作品を今、嵯峨天皇の時代に制作することは日本の歴史に長く記録されます。という熱意のある嵯峨天皇への手紙を書いていた。 平安京には朱雀大路七条の西側には主に食料品を扱う公設の西市場、東側には主に鍋、釜、陶器、生活用品などを扱う公設の東市場があった。これらの商品は全国から運ばれてくるが、当然ながら高い商品や粗末な物は売れなく業者や生産者は安くて品質のいいものが売れることを知り、競争の原理と業者間、生産者が品質まで切磋琢磨することで儲かることを知ることになった。 このことを知る嵯峨天皇は守敏が提案してきた「仏像仏壇工房団地」と「陶器工房団地」をすぐに認められていた。そしてこの二つの工房団地の場所をお決めになられた。東山の五条大路~九条大路の東山の中腹には瓦、陶器に適した粘土が大量にあり、西寺東寺の瓦の粘土が採取された跡地は鴨川~東山の中腹まで広大に広がっていた。嵯峨天皇はこの地の七条側を「仏像、仏壇工房団地」(現京都国立博物館)に五条側に「陶器工房団地」(旧清水焼団地)に与えられた。 守敏は嵯峨天皇の勅命を受けて都に仏像仏壇工房を誘致する作戦を立てていた。まず、奈良仏教会七大寺院と薬師寺、川原寺に出入りする仏像工房と仏壇工房の名簿を作り、それぞれの貫主に腕の良い仏師を掘り出す指示をしていた。それぞれの貫主はまず本山の仏像の美術価値を調べていたか、たしかに本山と末寺には約500から1000体の仏像はあるが、さてさて?、美術価値というのはどういうものかは分からなった。 そもそも宗派が宝物としている仏像の多くは宗派の祖が手掘りしたのや皇族から寄贈された仏像が歴史あるありがたい仏像であると信じられてきた。つまり、この仏像はどこの工房作で誰が掘ったかの記録はなく、皇族や高級貴族の誰が寄贈したがで仏像の価値が判断されていた。これは髄や唐から遣随船、遣唐船で僧侶が持ち帰った仏像もこれは○○上人が唐の○○寺から持ち帰ったものだから国宝級の仏像になり、この仏像を掘った仏師の名前などは不明というのが現状だった。(日本の仏像国宝第一号の広隆寺の弥勒菩薩も作者不詳) 奈良仏教会が調べた仏像、仏壇工房の系譜はそのすべてが遣随船、遣唐船で仏像や仏壇ともに渡来した一族で唐国では大寺院の僧侶でその寺の仏師という役割りで寺の仏像や仏壇を制作していた。しかし、この奈良では僧侶の資格がないために寺の住み込みの仏師として仏像の修理などをしていた。 やがてこれらの仏師は自分の工房を持ち奈良仏教会の末寺の仏像、仏壇を制作していた。ただ当時は買われた仏像はまだ木の彫刻で僧侶がこの木の彫刻に仏の魂を入れることで仏像になっていた。したがってこの魂を入れた僧侶の格式、または寄贈した公卿や貴族の格式でこの仏像の価値が決まっていたのでこのありがたい仏像を掘った仏師も工房も関係がなかった。 この格式がある僧侶とは守敏が改革する前の奈良仏教六大宗派七大寺院の貫主でこの貫主が仏像や墓石に魂を入れたり、葬儀に参列するだけで最低でも銭10貫(銭1万文)のお布施が相場だった。つまり、仏像、仏壇とは宗派の本山の金儲けの手段であって美術品としての役割りがないために仏像の大量生産で仏師は工房の弟子を食わしていた。 そこで守敏は七条での「仏像仏壇工房団地」をより宣伝するための作戦を考えて嵯峨天皇に提案していた。それは「京都仏像美術大展覧会」で仏像の美術そのものを競う展覧会でこれに優勝すると、①嵯峨天皇杯を授与 ②賞金総額28万貫で優勝者は20万貫、2位~5位までは2万貫 ③優勝者には嵯峨天皇より仏師の氏と姓名が授与 ④審査は出品仏像の前に置かれた賽銭箱の額で決定 ⑤会場は官営西寺講堂 とする。 これを嵯峨天皇に提案するが、賞金総額を半分にしての許可が出された。これは守敏の作戦でわざと賞金総額を多くしたのはどうせ宮中の左大臣や右大臣が反対するのを見越していた。そこで嵯峨天皇と各大臣の折衷案とし減額したことでお互い顔を立てるという宮殿の伝統手法を守敏は上手く利用していたが、この賞金総額14万貫(現在の価値観から約14億円と推定)というのは途方もない超大金で当初、嵯峨天皇と守敏との内々の打ち合わせでも嵯峨天皇は二の足を踏んでいた。 この内々の打ち合わせというのは嵯峨天皇が神泉苑離宮や六条河原離宮に来られた時に度々車座での会議という名目の飲み会が開催されていた。今回も最澄、空海、守敏、稲荷神社の伊呂具、松尾神社の酒公が招待されたが、空海は例の件で皆んなと顔を合わすのが辛いのか?病気を理由にした欠席だった。 この飲み会の冒頭、嵯峨天皇は守敏に、 「お主はそんな途方もない企画や演出をどこで習った?」 「いや~それは最澄さまや伊呂具さまにここで悪知恵を習ったのです。私も皆さまと知り合いにならなければ真面目な東大寺の幹部僧侶として気楽な生活をしていました」 そこで最澄が守敏に、 「空海が奈良仏教も比叡山仏教も粗製乱造した仏像を拝んでいると批判しているが、その反論なのか?」 「いえ、私は粗末な仏像でも仏には願いは届くと信じています。しかし、嵯峨天皇の時代の仏像をこの先一千年後まで庶民に厚く拝まれる美術品としての仏像を数多く残したいのです。それには世界に通じる仏師を数多く我々の手で生み育てなくてはならないからです」 この守敏の企画した「京都仏像美術大展覧会」はこの飲み会で満場一致で承認されていたが、この会は政府機関でも公認の会議でもないので一切の議事録はない。しかし、この嵯峨天皇の時代の輝かしい高度成長や外圧の脅威や戦争もない平和政策を推し進めてきたのがこの飲み会での決まりごとだった。ただ、空海は今回の欠席以後参加を遠慮していた。 この「京都仏像美術大展覧会」の大宣伝は奈良仏教、比叡山仏教の末寺3千寺院の僧侶が全国で展開していた。この賞金10万貫という空前の賞金額には宮中も驚いたが、奈良の仏像工房の仏師は腰を抜かすほどの衝撃を受けていた。しかも、2位~5位でも1万貫という途方もない大金になる、さらに入賞した仏像もちろん今後この工房で制作される仏像は美術品として高値で取り引きされることが目に見えている。日本には仏師は50名ほどしかいないのでこの中の5名が確実に大金と名誉を掴むことなるので仏師のすべてがこの京都仏像美術大展覧会に出品参加することになった。#京都不粋大学 78 #マネキン小説ワタシはマネキンを題材にする #マネキン小説家 だが、いつもは女性ばかりで #メンズマネキン とは初めて遭遇した。そうなると創作意欲がふつふつ湧いてきます。私は全世界マネキン労組(wмu)からマネキンの人権を守る作家として認定されています。このように裸で放置する店員は #不粋な人 としてマネキンから嫌われます。#京都不粋大学観察部#京都不粋大学 77 #フユサンゴ#ミニ植木鉢 (直径65㍉高さ60㍉4個110円)を50個ほど買った。狭い場所を有効に使うために #ミニ植木 となりました。本当は #盆栽 に挑戦しているが、 #不粋な人 ですから植木を切ったり曲げたりするのがかわいそう…? #ミニ盆栽 #小品盆栽 #小説盆栽物語★★★★★新連載小説をはじめました。小説盆栽物語 1話 空海唐から盆栽50鉢持ち帰りへ小説盆栽物語 2話 宗景造園業に弟子入りで盆景和尚となる小説盆栽物語 3話 盆景(盆栽)のルーツ、雅山少年が発見小説盆栽物語 4話 宗景、玉林の禁断の恋から若者たちが盆景を爆買い小説盆栽物語 5話 玉林、宗景皇帝に祝福され結婚…豆盆栽小説盆栽物語 6話 日本茶のルーツは武夷岩茶の盆景になる小説盆栽物語 7 話 椿の盆景が明懸尼寺を再興させた小説盆栽物語 8話 玉林(ユーリン)に赤ちゃんが! 桓武天皇崩御小説盆栽物語 9話 空海屁理屈禅問答で盆栽は戦争をなくす小説盆栽物語 10話 玉林、盆景和尚長安での最後の別れの夜小説盆栽物語 11話 最澄、空海官位剥奪の上5年間謹慎処分小説盆栽物語 12話 遣唐船嵐でニ隻難破、空海長崎で説法会小説盆栽物語 13話 空海真言宗を開山、1月7日は「盆栽の日」に制定小説盆栽物語 14話 盆栽無事京の都に、その夜、比叡山燃える小説盆栽物語 15話 東寺、日本大観覧盆栽・植木市へ小説盆栽物語 16話 第一回東寺盆栽展、大植木市大盛況小説盆栽物語 17話 盆景日本初の茶の種を撒く、坂本、信楽、朝宮茶小説盆栽物語 18話 坊主が太ろうと思えば、まず農民を太らすこと(最澄)小説盆栽物語 19話 盆栽の大流行で「清水焼」が誕生した小説盆栽物語 20話 盆景和尚東九条村で小麦栽培指導へ ★★★ 小説西寺物語 1話 守敏と空海の因縁の争い・西寺跡発掘調査・女装小説家 オカマのイナコ小説西寺物語 2話 九条葱が西寺を救った小説西寺物語 3話 守敏、芹と葱で大僧正に! 小説西寺物語 4話 稲荷神社のお告げで長岡京遷都決定小説西寺物語 5話 寺と村落ぐるみ乗っ取り大作戦小説西寺物語 6話 東大寺権操、守敏長岡京へ抗議の旅 小説西寺物語 7話 東大寺僧兵300名稲荷神社と戦へ小説西寺物語 8話 農民稲荷神社炎上を救う小説西寺物語 9話 守敏僧都、都を代表する名僧に!小説西寺物語 10話 最澄、空海唐へ、守敏奈良仏教から破門小説西寺物語 11話 僧侶不足で奈良から僧侶引抜き大作戦小説西寺物語 12話 神野親王武家源氏を旗上げ小説西寺物語 13話 巨大権力(奈良仏教)には経済封鎖を小説西寺物語 14話 皇太子の不倫…人妻・薬子の変小説西寺物語 15話 平安時代の美魔女薬子の野望小説西寺物語 16話 平安時代のスーパースター光源氏誕生小説西寺物語 17話 薬子の限りない野望…その1小説西寺物語 18話 807年空海真言宗を立ち上げる小説西寺物語 19話 最澄罪人ながら凱旋門から入城、比叡山へ小説西寺物語 20話 即戦力になる奈良仏教の僧侶改宗大作戦小説西寺物語 21話 奈良仏教稲荷神社の仲介で金銀三十万貫を比叡山へ小説西寺物語 22話 西寺東寺塔頭60ヶ寺建造工事着工へ小説西寺物語 23話 西寺建造僧侶350名の大ストライキ小説西寺物語 24話 西寺守敏僧都は最澄、空海、稲荷神社に騙されているのか?小説西寺物語 25話 西寺派守敏僧都の悪知恵で布教大成功へ小説西寺物語 26話 守敏僧都350名を百戦錬磨の僧侶に育てる 気になる木小説西寺物語 27話 平城天皇上皇へ、西寺派奈良に21名のスパイ僧侶派遣小説西寺物語 28話 西寺工作僧侶奈良警備隊に任命され貴族に大出世小説西寺物語 29話 第52代嵯峨天皇即位、最澄、空海復活へ小説西寺物語 30話 女帝(薬子)西大寺爆破命令で大炎上小説西寺物語 31話 京の都、東の都「一国ニ天皇制」薬子の陰謀小説西寺物語 32話 守敏僧侶の適材適所の人材育成は天才小説西寺物語 33話 攘夷大将軍坂上田村麻呂が関東、東北制覇・痴呆症物語 小説西寺物語 34話 薬子の野望と不倫は天下一品 小説西寺物語 35話 朝廷と駿河豪族との歴史的和解へ・京のいけず石、いけず石、親切ないけず石・痴呆症物語 小説西寺物語 36話 嵯峨天皇、平城上皇征伐に武将源氏として初陣へ・痴呆症物語小説西寺物語 37話 平安時代の大パフォーマンス、薬子自害で「薬子の変」終結・光明塚小説西寺物語 38話 比叡山仏教、最澄空海分裂で宗教戦争へ・痴呆症物語 小説西寺物語 39話 空海の野望は仏教界の正一位になること・痴呆症物語小説西寺物語 40話 空海最澄からの破門を許されて空海高雄神護寺の再興へ・痴呆症物語小説西寺物語 41話 空海都へ、真言宗本山高雄神護寺で再出発・痴呆症物語小説西寺物語 42話 空海出直しで稲荷神社に習い街道整備に汗流す・京都不粋大学 京都不粋大学観察部このコラムが少しでもおもしろかったら↓↓↓の画像をワンクリックしてください。ブログランキングに参加しています。現在5~7位どす。。。あなたの愛のワンタップが私に生きる勇気を与えてくれます。1位まではあと少し…よろしくおねがいいたします。小説家ランキングは