ザルツブルグ祝祭劇場とカラヤンの生家
「お勧めブログの紹介シリーズ」で「ルードヴッヒ2世(Ludwig 2)」に関わるブログの紹介をしようと過去ログをあたっていたら、ノイシュバンシュタイン城やリンダーホフ城を正式な形で紹介していなかった事に気がつきましたノイシュバンシュタイン城については、「ここはどこ?シリーズ」の形体で2009年の暮れから正月にかけて簡単に紹介しただけ。リンダーホフ城については、ヘルベルト・フォン・カラヤンの生家を紹介(2009年12月)したついでにおまけに載せただけ。見返すと中身も薄いけど写真の色も悪くなっていた※ 昔の楽天ブログは容量に制限があり、写真も解像度を落とさないと枚数載せられなかったし、文字数の制約があったのです。これをどうにかしないといけないな・・と言うわけで、2009年12月「ヘルベルト・フォン・カラヤン + リンダーホフ城」をそれぞれカテゴリー別に分離。内容を充実させ、過去のログを消去して新たに掲載し直すことにしました。リンダーホフ城が残れば良かったのですが、カラヤンも大幅に中身変更して残しました。カラヤン、リンダーホフ城、ノイシュバンシュタイン城と順次更新予定。とは言え、カラヤンについて語れる事はありませんので経歴の紹介程度です。2018年2月「ザルツブルグ祝祭劇場とカラヤンの生家」2018年2月「リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」ザルツブルグ祝祭劇場とカラヤンの生家ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)ザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)ザルツブルク・イースター音楽祭(Salzburger Osterfestspiele)ザルツブルグ旧市街・・・メンヒスベルグ(Monchsberg)の丘からホーエンザルツブルグ城(Festung Hohensalzburg)とピンクの矢印がザルツブルグ祝祭劇場ザルツブルグ新市街(川の向こう)ザルツァッハ川の新市街側、モーツァルトのタンツ・マイスター・ハウス近所、ホテル・ザッハー・ザルツブルグ隣(川下側)にカラヤンの生まれ育った家が残っています。ピンクの矢印がカラヤンの生家水色の矢印がホテル・ザッハー・ザルツブルグ黄色の矢印がモーツァルトの住んでいた家の一つ。今は記念館。ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)ザルツブルクの生み出した音楽家はモーツアルトだけではありません。20世紀クラッシック界のマエストロ(巨匠)と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)もザルツブルクで生まれ学んだ人です。音楽を知らない人でもカラヤンの名前くらいは聞いた事があると思います。1954年の初来日以降、11回も来日しているし・・。ベルリン・フィルやウィーン交響楽団の指揮者を勤めた世界的指揮者でありオペラの芸術監督でもありました。経歴を見れば帝王と呼ばれたのも納得です。※ ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker) ・・・(1955年~1989年 終身指揮者・芸術監督)※ ウィーン交響楽団(Wiener Symphoniker) ・・・(1948年~1960年 主席指揮者・ウィーン演奏協会音楽監督)※ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(Wiener Philharmoniker) ・・・1983年 名誉指揮者※ ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper) ・・・(1956年~1964年 芸術監督)※ ウィーン楽友協会(Wiener Musikverein 1929年~? 音楽監督)彼の功績は、田舎町ザルツブルグを今も世界に名を馳せさせる音楽の都としての地位をさらにあけだ事にあると思います。その一つが今もザルツブルグで毎年行われているザルツブルク・イースター音楽祭(Salzburger Osterfestspiele)。これは彼が1967年に創設した音楽祭です。なかなか男前・・・だったのね。 写真はウィキメディアからヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(1908年4月5日~1989年7月16日)オーストリア・ハンガリー帝国だった時代にザルツブルクで貴族の子として誕生。ザルツブルク・モーツァルテウム大学(Universitat Mozarteum Salzburg) ではピアノを学んでいます。(家の近所だし・・・。)ザルツブルク・モーツァルテウム大学と現在名称が代わっていますが、前回紹介した国際モーツァルテウム財団が1914年に築いたモーツァルト会館「モーツァルテウム」内に入った音楽学校が、それです。1914年に音楽院となり、ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner)(1887年~1971年)が1917年~1938年と1945年~1959年まで長きに学長を努めている。彼はベルンハルト・パウムガルトナーの最も有名な弟子の一人としてあげられています。新市街と旧市街を結ぶ新しい橋。旧市街側からザルツァハ(Salzach)川、越しの左がカラヤンの生家で右がホテル・ザッハー・ザルツブルグ。家は、ホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)の道路隔てたお隣です。現在はオーストリアの銀行が所有。貴族の称号を持つカラヤンの家には室内楽愛好家が集まっていたらしい。下がホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)正面カラヤンの家は写真右の見切れている所。川は建物の裏。川の向こうが旧市街。ちょっとホテルの説明を入れるとホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)になったのは割と近年の事。ホテル自体は1866年創業しているが、最初はホテル「オーストリア(d’Autriche」)。そしてホテル「エスターライヒッシャー・ホフ(Österreichischer Hof)」 となって1988年、現オーナーのギュルトラー・ファミリー(Gürtler family)がホテルを買い取りホテル・ザッハー・ザルツブルグが誕生している。当事のホテルは貴族のサロン的なホテルとして存在していた。当然、夏の音楽祭には世界中からザルツブルグにセレブが集まる為に今も高級ホテル。しかもザルツブルグ祝祭劇場(Festspielhaus in Salzburg)まで橋を渡ってすぐと近いからね ザルツブルグはとても小さな街ですが、モーツァルトの住んだアパートの一つもこの目と鼻の先。裏はミラベル庭園と、とても立地の良いところです。カラヤンは、ザルツブルク・モーツァルテウム大学の後ウィーン国立音楽院にて指揮法を習得。さらにウィーン大学で音楽学を学び、そして、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。いったんデビューすると、1927年、ウルム市歌劇場の指揮者に就任。1929年には「フィガロの結婚」でオペラ指揮者として、1935年にはアーヘン歌劇場音楽総監督に就任。1938年、ベルリン国立歌劇にて「トリスタンとイゾルデ」の指揮で国際的評価。その後は、ベルリン国立歌劇場、ベルリン国立管弦楽団、ミラノ・スカラ座でのオペラ指揮と、とんとん拍子に・・・。ヒトラーから「君は神の道具だ」と絶賛されたそうで、実力が伴っていたのは間違いない。世界大戦を越えてからは、1948年にウィーン交響楽団(Wiener Symphoniker)の首席指揮者、翌1949年にウィーン楽友協会の音楽監督に就任。1955年~1989年、ベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督に就任。34年間という長きに君臨。※ ベルリン・フィル前任はヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(1886年~1954年)。20世紀のクラシック界を二分する名指揮者がベルリン・フィルに二人も在籍していた。しかし、疎遠になった音楽際も・・。1951年、戦後再開したバイロイト音楽祭で、主催のリヒャルト・ワーグナーの一人息子と衝突して疎遠になったバイロイトがあり。1956年から1964年まで努めたウィーン国立歌劇場の芸術監督時代の衝突で疎遠になったウィーン国立歌劇場があります。「全てにおいての支配を望むカラヤン」と悪意的に表現する人もいるが、自分の描いた完璧な音楽を何一つ妥協せず人にこびずに実効する事は芸術家なら誰もが望む事だろう・・・と思う。そのカラヤンのこだわりを「カラヤン美学」と称すのだろう。逆に帝王カラヤンにとっての不満を解消し、思い通りに計画立案して実行できたザルツブルク・イースター音楽祭の創設はカラヤンの理想の完璧な音楽になっていたはずだ。像の写真はかなり前のもの。近年のは汚れているのかカメラの解像度がよくなったからなのか? 汚いのです。汚れると銅像はおじいさんに見えますね。ザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)祝祭大劇場はザルツブルグの旧市内に建設。完成は1960年。土地の少ないザルツブルグで苦肉の策でメンヒスベルク(Monchsberg)の岩盤をくり抜いて(55,000m3 )建築したと言う。ステージの大きさは最大横32m、高さ9m。座席総数は2179席、立ち見席はなし。しかし、実はここには3つの音楽堂がある。ザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)1960年~フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)1926年~モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)1925年~メンヒスベルグ(Monchsberg)の近代美術館テラスから岩肌に建物がめり込んでいるのが解る。写真、建物手前がカラヤン広場。ホーエンザルツブルグ城(Festung Hohensalzburg)から実はこの山は崩れやすい。祝祭劇場の向こうの荒れた岩肌は崩れてできたもの。17世紀、突然崩れた岩により教会が2つ、民家13軒、230人の人が亡くなっているそうです。それでも土地の狭いザルツブルグの旧市街は一等地。岩山の中には丘に上がる為のエレベーターや地下道が通っている。下から見ると薄っぺらくて、まさかこれがコンサート会場だと気付かない。手前がモーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)で隣接した奧がザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)春の復活祭に開催されるザルツブルク復活祭(イースター)音楽祭と夏に開催されるザルツブルク音楽祭では共に主会場となる。広報の言葉を借りると、一年の内の5週間(2018年7月20日~8月30)だけ、ザルツブルクは世界の中心となる。らしい。劇場前からのメンヒスベルグ近代美術館方面ひさしのある所がフェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)とモーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)入口。エントランスのオブジェはギリシャ由来の3つの戯曲(悲劇、喜劇、サテュロス劇)の仮面がモチーフになっているようです。フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)の中を見ていないが、ここが歌劇場たと言うことは上のオブジェが示唆している。フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)一番古くからあったフェルゼンライトシューレの前身は1693年大司教がメンヒスベルグの岩肌を利用して狩猟の為の厩舎(きゅうしゃ)を建てた事に始まる場所。1841年には乗馬学校となり、第一次世界大戦後は最初の連邦軍がここに駐留。ザルツブルグ祭の一環として演劇の野外公演に利用される事になったのは1926年から。当初は自然の岩肌をを利用したもので音響は微妙なものの舞台には向いていたらしい。1948年にはカラヤンが初めてオペラの舞台に変えた。1968年から1970年にかけて、再設計され幅40mのステージは深さ4mのサブステージを受けステージを保護の為、可動式の遮光性の伸縮式雨カバーが設置。2010年と2011年にはさらにモバイル屋根がリニューアル。新しいペントルーフは6分以内に5本の伸縮アームで引っ張って伸ばすことが可能に。これは2012年にザルツブルク州の建築賞を受賞しているそうだ。ウィキメディアコモンズから借りてきたフェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)内部これを見ておきたかった残念ここで「サロメ」を見たらゾクゾクしそう。(2018年のプログラムに入っている。)モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)前からのホーエンザルツブルグ城方面モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)元はザルツブルク宮廷の旧厩舎が1924年改築されたもの。屋外でのオペラ上演が雨天で出来ない時の代替えなど考慮されてさらに改築されている。1960年祝祭大劇場の完成とともに、モーツァルトやリヒャルト・シュトラウスなどの比較的小規模のオペラの舞台となり「祝祭小劇場」と改称。モーツァルト生誕250年を記念して、「モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)」とさらに改称。客席は拡張され、現在の座席数は1,495席、立ち見席85。ザルツブルク・イースター音楽祭(Salzburger Osterfestspiele)1967年には、自らの理想に沿うワーグナーのオペラの上演をめざして、ザルツブルク復活祭音楽祭を始めた。カラヤンにとって思い入れのあるワーグナーを。彼自身の解釈によるワーグナーを。彼の思うように指揮のできるワーグナーの演奏を目指しての創設だった?カラヤン自身、私的な音楽祭としてイースター音楽祭を位置づけしていたらしい。財務的、芸術的に可能な限り自立したなか(約88%が音楽祭の後援者とメンバーシップなど民間による支援で運営)で、自身の夢を可能にしたと広報には書かれている。夏の音楽祭に比べれば小規模だそうですが、かつては4つの公演全てを、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とベルリン・フィルの首席指揮者が指揮するという点。特にベルリン・フィルがオーケストラ・ピットに入って演奏する機会はこの音楽祭以外にはほとんどない貴重な体験として人気を博したらしい。これはカラヤンがベルリン・フィルの主席指揮者をしていたからこそなしえた事だったのだろう。彼の死後存続が危ぶまれたらしいが45年間の長きにわたりベルリン・フィルとザルツブルグ・イースターの関係は続いた。しかし2013年から一新された。演奏はドイツ、ドレスデンの歌劇場の専属オーケストラザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン(Sachsen Staatskapelle Dresden)と指揮はその首席指揮者クリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann)(1959年~ )に変わっている。今年の開催は2018年3月17日~4月2日音楽祭の中心となるのはジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)のオペラ「トスカ(Tosca)」だそうだ。内部見学ツアー(古い写真ですが見つけたので・・。)たぶんザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)の内部ところで、カラヤンの墓所はザルツブルグ郊外のアニフの教会に故人の遺志通りに埋葬されたらしい。(ザルツブルクとしては、豪華な墓所を提供したかったようですが・・・。)おわりザルツブルグについての過去ログは以下です。2015年2月 ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)2015年2月 ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベ)2015年4月 ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1) 2015年5月 ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)2015年5月 カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)2009年のものは画像も悪いですが・・。2009年12月 ザルツブルク 1 (聖ペーター教会と街)2009年12月 ザルツブルク 2 (ホーエンザルツブルク城) 2009年12月 ザルツブルク 3 (司教座聖堂と大司教) 2009年12月 ザルツブルク 4 (マルクト広場) 2009年12月 ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市)2009年12月 ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)2009年12月 クリスマス市の名物グリューワイン 2009年12月 ザルツブルクのモーツァルトの家 2009年12月 ザルツブルクのモーツァルトクーゲル次回、「リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」予定。