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はじめに 昨日は、山の日なれども海に行こーと 思ってましたが…そーゆー段じゃナイ情報が ネットで見つかりまして(後述)…まずは、 大峯顕先生(浄土真宗本願寺派)の御法話をば! 急遽、YouTubeで共有したワケですが… 昨日拝読しました久保龍雲先生 (浄土真宗本願寺派)のツイッターにて… ↓ (龍雲先生のツイート) 浄土真宗の布教において気になっている ことがあります。それは何かというと、 阿弥陀仏の素晴らしさに感心した人に対して 「安心してください、もう あなたも救われてますよ」 といった言葉をかける布教者がいることです。 まだ聴聞もしていない人に そんなことを言ってしまうのは、、、 本願疑惑心によって救いが妨げられている と説く浄土真宗の教義が、まるで 意味をなさなくなります。 控え目に言っても、浄土真宗の布教者が そんなことを云うのは無責任ではないか、 と感じます。 これに関連して、名僧・梯実圓師の 言葉を紹介しておきます。 「誰でも彼でも死んだら浄土にいくと 考えていますが、誰でも彼でも死にさえすれば、 浄土にいくというのだったら、教えなんか なかったらいいのです。そうでしょう。 教えなんか必要ないじゃないですか。 もっとも、それはただクチ先だけで、 信念もなければ確信もない。 だからいざ生死の厳頭に独り立たされた ときには、何もかもわからなくなって、 ただ絶望するだけの惨めさを 味わわなければなりません」 (『お念仏申す人生を生きる』より) 梯師の文章にあるように、 誰でも死ねば浄土にいくというのなら 教えは必要無くなります。 余計なおせっかいかもしれませんが、 老婆心ながら、浄土真宗の布教者には、 そこのところを真剣に考えて頂ければ と思います。 南無阿弥陀仏 ↑ (以下、KAGEROUさんのコメント) 誰でも死んだらお浄土 蔓延してます。 死の自覚がないこと、と言ったら 首を傾げられたこともあります。 そういう人が住職、住職候補に一杯居ます。 自身の心の汚さも省みず仕事が できたらいい、という価値観。 おじいさんおばあさんにも多いです。 ↑ (以下、龍雲先生がリツイートされた、 メグルさんのツイート) あ。ありますね(笑) 突然「救われる」と言われても(;´∀`)です。 自分が何か体験したり実感してる訳では無いので 「救われるって何?どういう事?」と モヤモヤだけが残りますー。 お聴聞を繰り返すうちに、なんとなく わかった様なわからない様な。。。(笑) まだまだモヤモヤしながら聴聞してます。 あぁ。でも あんなに嫌だった過去の記憶が、 良かった記憶に変わったのは仏教に触れたから。 これも1つの「救われた」なのかな?? まぁ。頭で考えてもわかるわけが無いので(笑) 今日もこれから法話へ行ってきます。。 ↑ (サバティさんのコメント) ここ、お取次ぎの時にも 少し気をつけているポイントです(・ω・`*) 誰が救われてないとか救われてるなんて 僧侶がわかることじゃないけど、 救いのはたらきが届いている ことは間違いないと、 そうゆう仏になれることを 一緒に聞かせてもらってます(´∇`) ↑ (メグルさんの返信) あ!!! 「救いの働きが届いてる」 その言葉なら、まだ素直に受けとれそう!!! (本当に伝える言葉って難しいですね) 救われるとか言われても、全然自分の事として 受け取れないからモヤモヤするだけなんです(笑) コメントありがとうございます!!!! ↑ 結論。 誰でもお浄土に行ける…ではなくして、 誰にでも《救いの働き》が 届いているのだが、ソコに 気付けるか否かがモンダイ。 ・ …ココで思い出されるのが、 倉知百三《出家とその弟子》のラスト… ↓ 親鸞:わしはもうこの世を去る…… (細けれどしっかりと)お前は仏様を信じるか。 善鸞:………… 親鸞:お慈悲を拒んでくれるな。 信じると言ってくれ…… わしの魂が天に帰る日に安心を与えてくれ…… 善鸞:(魂の苦悶のために真青になる) 親鸞:ただ受取りさえすればよいのじゃ。 一座緊張する。勝信は顔青ざめ、 目を火の如くにして善鸞を見ている。 善鸞:(唇の筋が苦しげに痙攣する。 何かいいかけてためらう。遂に絶望的に) わたしの浅ましさ……わかりません…… きめられません。 (前に伏す。勝信の顔ま白になる) (中略) 親鸞:(かすかに唇を動かす。 苦悶の表情顔に表わる。 やがてその表情は次第に穏やかになり、 終にひとつの静かなる、恵まれたるもの のみの持つ平和なる表情にかわる。 小さいけれどたしかなる声にて) それでよいのじゃ。 みな助かっているのじゃ…… 善い、調和した世界じゃ。 ↑ …やっぱ、史実と違う…ですな。
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