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カテゴリ:歴史・人物
前回の続き
瑞賢は木曾に着くと木曾で有数の山林業者の家を訪ねます。 そこで家の子供がおもちゃで遊んでいたのですが瑞賢は小判に穴を空けおもちゃとしてその子供のあげてしまいます。 それを見た主人は瑞賢を江戸でも五指に入るような業者と勘違いします。 それで瑞賢が「お金は後払いでとにかくここにある材木全てを買い付けたい」 といったときあっさり承知します。 そんな調子で瑞賢は木曾で大量の材木を元手なしで買い占めることに成功します。 遅れて江戸からやってきた他の業者が材木を買いつけしようとしても後の祭りでした。 木曾の良質な材木を手にいれたければ瑞賢から買うしかありません。 瑞賢はここで巨利を得て当時の大手ゼネコンになる基礎を築きます。 他にもちょっとおもしろいエピソードがあります。日光東照宮を造営するために箱根の山から木を切り出し日光まで運ぶ仕事を請け負ったのですが瑞賢はなかなか出発しません。 そして大雪が降ったその日、なんと瑞賢は作業員に木の切り出しを命じます。 作業員は常識はずれの指示に不平たらたらでしたが切り終わって運びだす時に気がつきます。 木を切り出し麓まで運ぶのは通常多大な費用と労力がかかるのですが雪が積もっているのでウソのように簡単に麓まで下ろすことができたのでした。 作業員達は瑞賢の知恵に感心します。 しかし驚くのはそれからでした。瑞賢は麓の川まで木をおろしてから堰(小さなダムみたいなもの)を築くことを命じます。 雪が解けて十分に水位があがってくると堰を切って一気に海まで材木を運びます。それから筏を組んで利根川をさかのぼらせ日光までかなりの低コストで運ぶことに成功したのです。 その手腕を見て当時の老中は東照宮の造営をそのまま瑞賢にまかせることを決めたのです。 そうして幕府ともつながりが出来た瑞賢は本来彼がやりたかったこと。新しい航路の開発に取り組みます。 当時は東北の日本海側山形県や秋田県の物産を瀬戸内海を通り直接大阪に運ぶ海路が確立されていませんでした。瑞賢はそうした航路を作るため途中寄港できる港を一つずつ丹念に現地まで行って調べます。 こうした瑞賢が確立した海路を西廻り航路といいます。 蝦夷地(北海道)の海産物とくに昆布、にしん、鮭、庄内地方の米などが大量に物を運べる船で入ってくるようになりました。関西の人が昆布だしを好むのはこの時以来のことです。 また蝦夷地から太平洋側を通って江戸までの航路を(特に三陸沖は船の難所として名高い)東廻り航路といいますがこれも瑞賢が確立させます。 河村瑞賢はこうして当時の日本の海運物流の基礎を作った人なのです。日本のほとんどの人がこの恩恵に預かったといっていいでしょう。 ちなみに瑞賢が世にでた「明暦の大火」ですが別名「振袖事件」とも呼ばれています。 明暦の大火の出火原因はその前の火事があった時ある娘(お七だったかな?)が火事の避難場所である若者に一目ぼれしてしまったことから起こります。 説明するとつまり娘はその若者にもう一度会いたいため自分で放火してしまったのです。それが江戸時代でも最大の大火になって江戸城の本丸も焼けてしまったのです。これに比べればちょっと刺されるくらいかわいいものですかね。? 参考文献 『大江戸豪商伝』 童門冬二著 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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