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子どもの「心の成長」との関係で見たとき、オモチャは大きく二種類に分けられます。
それは「遊び方が決まっているオモチャ」と、「遊び方を自分で考えるオモチャ」の二種類です。 そして、「遊び方が決まっているオモチャ」は、その全てが大人が作ったものです。テレビでも、ゲームでも、公園の遊具でも、自動車や電車のオモチャでも、リカちゃん人形(古い?)のようなリアルなお人形も同じです。 ディズニーランドもまた「遊び方が決まっているオモチャ」です。レゴのような一見自由度が高いオモチャでも、基本的な遊び方は決められています。簡単に言うと、元に戻せないような遊び方は許されていないのです。 まだ常識に囚われていない幼い子ども達はそんなこと無関係に遊ぼうとしますが、大人が決めた遊び方を無視すると大人に叱られます。 時々、ブランコの座るところに砂を乗せたり、石を載せたりして遊ぼうとする子がいますが、そういうことをすると叱られます。バケツに水を入れて乗せても、おかしな乗り方にチャレンジしても叱られます。 滑り台を下から登って遊ぼうとしたり、上から砂や石や物を転がして遊んでも叱られます。トランプやリカちゃん人形に絵を描いたり、自動車のオモチャを土の中に埋めて遊んでも叱られます。 子どもはとにかく思いつくことをみんなやって見たいのです。幼い子ども達は常に、科学者であり、芸術家であり、冒険家であり、チャレンジャーなのです。そして、これこそが人間の「人間らしさ」を支える本能でもあるのです。この本能があったからこそ、人類はこのような高度な文化や文明を創り上げることが出来たのです。 でも、幼いときから自由を規制されて育って来た人は、そのような子ども達の感性が理解出来ません。自由に考えるという発想もないし、自由に考える相手と付き合うのも苦手です。また、常識を愛し、マニュアル化できるような定型化された活動をしていると安心します。 ですから、それを子どもにも求めます。 そして、常に「予測不能な子ども達」を追い回し、叱り、一生懸命に常識を教え込もうとしています。でも、いつもその努力は徒労に終わり、疲れ果てます。 そのような大人は子どもにも「遊び方が決まっているオモチャ」を買って与えます。遊び方が分かるオモチャなら一緒に遊ぶことも出来るからです。 子どももまた、「テレビで見たオモチャ」を欲しがります。 でもそれは、パッケージの絵だけで、中味には無関係にお菓子を欲しがるのと同じで、中味のことが分かっていないままに欲しがっているだけなのです。 その証拠に、買ってもらったときは喜びますが、すぐに飽きて遊ばなくなります。自由に遊べないから楽しくないのです。 そのような「遊び方が決まっているオモチャ」の他には、「遊び方が決まっていないオモチャ」があります。というか、「遊び方が決まっているオモチャ」以外のものが全てこれに相当します。 家庭の台所用品も、布も、布団も、道ばたの石も、公園に落ちている小枝や落ち葉や木の実も、水たまりも、食べ物も、ドロンコも、みんな子どもの手にかかれば「オモチャ」に変身します。 大人は、「そんなものオモチャじゃない」と思うかも知れませんが、」そもそも子どもには「オモチャ」という概念自体がないので、「オモチャ」と「非オモチャ」の区別などもないのです。 子どもは想像力で全てのものをオモチャに変えてしまう超能力を持っているのです。 ですから、そんな子ども達と一緒に遊ぶためには、大人達もまた想像力を働かせる必要があります。想像力を働かせないことには子ども達が「何をしようとしているのか」、「何を求めているのか」、「何を楽しんでいるのか」が見えないからです。 ちなみに、「遊び方が決まっているオモチャ」はその能力の発達を阻止します。 明日に続きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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