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カテゴリ:日替わり日記
海ホタルにて 最近、人間と人工知能(AI)が俳句を詠み合い、出来栄えを競うというイベントが行われたという。結果としては人間が勝ったのだが、近い将来、AIに人間の俳句が圧倒される時代が来るだろう。因みにAIの作品の一つを紹介すると かなしみの片手ひらいて渡り鳥 高度な知的ゲームでは、チェスは20年ほど前から人間のプロが勝てなくなり、将棋は10年ほど前からプロが圧倒され始め、近年は囲碁もプロが負けることが多くなった。 将棋や囲碁といった論理演算、画像認識などの分野では、AIの飛躍的進歩によって凌駕されるのは必然だろうが、感性や創造性というデジタルには不向きな文芸世界ではまだ遠いことと思われていた。 しかし、ここにもAIの足音は背後からヒタヒタと迫っている。 ぼくにもいずれこういう時代が来るという予感はあった。短い言葉の組み合わせの妙が評価される文芸では、詩語と呼ばれる慣用的熟語や類想的表現に多くの短詩人の手法が傾きがちだ。 座布団(過去作品)を裏返し、一丁上がりといった作品手法続けていれば、データ処理が得意なAIの格好の餌食になることは容易に想像できる。いずれ短歌も射程にはいるであろう。 人間が作らずにAIが生む作品。こんな言葉遊びはもはや文芸とは呼べない。何とも味気ない無味乾燥な世界が予想させられるのだが、これはあくまで類想や既成の手法頼りに作品を作りつづける場合の結果である。 AI作品は過去のデータの蓄積・分析・処理などによりできる答えである。機械にはない“言葉の体温や感情、無作為を基本にした作品”を生んでゆけば、そう簡単にAIに追い抜かれることはあるまい、と思う。 詩人たちにとって、慣用的熟語や類想的手法を脇に置いて作品づくりをすることは少々辛いことかも知れない。 しかし、例えば「恋」は神代の昔から繰り返してきたのに、誰も飽きたとは言わない。愛情表現の組み合わせには無限の膨らみや拡がりがある。安易な言葉・詩語・類想に頼らずに自分の言葉や自分だけの表現を求めてこそ、いつまでも飽きられることなく、愛される文芸として残ってゆくのだと思う。 と、まあこのように書くことがハードルをあげて、自分の首を絞めることになるのだがどうなることやら。 ひさしぶりに書いて、相変わらず屁理屈ばかりと思われるでしょうが、こんな奴でもお忘れ無く、今年もよろしくお願い致します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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