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「映画上映自粛など」を書いたとき、リンク先の「映画『靖国 YASUKUNI』上映中止について考える」の斉藤博昭氏の書いた文の以下の部分を読んで「う~ん。そうだよね~。要らなそうだよね」とおぢさんは思った。
本作を「反日」と批判した記事もあったと聞くが、そもそも「反日」とはどういう視点を言うのか、そして「反」とされる側の「日本」のアイデンティティとは何か? そもそもアイデンティティは必要か? 斉藤氏に限らずアイデンティティってどうよ?という疑問はこれまでにも提起されているのだろうが、おぢさんは考えたことがなかった。 四、五年程前には自分が日本人であることに何の疑問も持たなかったが、この三年程は「日本人ではないよね~。特に大和男児では無いな」と感じて、朝鮮系毛人を自認していた。このアイデンティティは捨てがたい。 「生き物」であるというアイデンティティは「生き物なんだからどうでもいいから生きるぞ」と自分に言い聞かせるためにも有益であり必要だ。「人間」というのも必要だ。「男」だというアイデンティティは「男らしく」とか言い出さないかぎり無害だ。女子更衣室に入らない為にも必要だと思うが他に何が必要なのだろう。 ともあれもう少しこのテーマについて考えてみたいと思った。Amazonでアイデンティティで検索を懸けるとわんさか出てくる。とりあえず気になったのはここら辺。機会があれば読んでみたい。 そして、特に気になるのはナショナル・アイデンティティという奴だ。 アイデンティティがこれだけ煩わしく感じられるのは「日本人は…」「日本人として…」「日本人ならば…」という言い回しが巷にこれまでになく繰り返されているからではないかと思ったりする。もっとも日本に限らず病気の蔓延する世界中でのことだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.02.07 19:13:55
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