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最近「どうしてあの悲惨な戦争に突入してしまったのか」という疑問から戦前の日本について調べている。
この疑問はさておいて調べていて思ったのは「戦前の右翼には左翼が多い」ということだ。「何言ってんだ」と思われるかもしれないが、五・一五事件の首謀者の一人である大川周明や二・二六事件の思想的指導者の北一輝の基層は社会主義である。彼らは戦前の主流ではないが影響力のあった傍流だろう。では、主流はと言えば蓑田胸喜あたりになるのだろうか。 大川や北は「革新右翼」とも呼ばれる。どこが「右翼」かと言えば「尊皇」ということになる。大川氏に見られる「国粋」という要素も「右翼」的なものと言えるかもしれない。 彼らの社会主義的要素(表面的には革命または維新)に注目すれば「革新」であり、尊皇国粋的な要素に注目すれば「右翼」となる。こうして一見矛盾するような「革新右翼」という言葉が生まれる。 大塚健洋著『大川周明』の副題は「ある復古革新主義者の思想」となっている。ここでも「復古」と「革新」という言葉が隣り合う。彼等を形容するとどうしてもこうなる。これはそれが正しい形容だからだろう。
本書の序章「日本ファシズムと大川周明」は日本のファシズムについて分かり易く手頃な分量の解説となっている。以下の図はそこから拝借したものだ。 彼らを見ていると右、左という軸への疑問が沸く。右左に拘泥していてはいけないなと感じる次第である。 右左という軸の不十分さを指摘して「理」「気」という軸で昭和の思想を捉えなおす植村和秀氏の試みなどもある。 西田幾多郎 / 丸山真男 --------- 平泉澄 / 蓑田胸喜 参考:「「蓑田狂気」と呼ばれた蓑田胸喜の思想史的位置」(聖徳太子研究の最前線) 右翼と呼ばれる者の一部も中身が社会主義である上に、社会主義から国家社会主義に転向した者も多かった。そう考えると戦前の日本は右も左も巻き込んでまさに翼賛体制で軍部に協力して戦争に突っ込んでいったということだろう。 今、戦前の日本に郷愁を覚え後戻りしようとしているのが清和会や日本会議などのウヨクであるために戦前の日本は右翼に占められていたかのような印象になってしまうのだろう。さらに、戦後の平和主義の左派からすれば戦争を主導したイメージの悪いファシストは右翼に押し付けて置きたいというのもあったかもしれない。 戦前のどこかの段階で軍部が主導権を握り、満州での軍部の暴走があり、国際連盟から脱退し、太平洋戦争に突入する。日本はヒトラーのような独裁者がいたわけではない。天皇は無力ではないが主導権を握っていたのは軍部である。日本軍内部は陸軍対海軍や皇道派対統制派など様々な対立を抱えており、下剋上の風潮まであったといわれ、まとまりが悪い。とても軍部と一言で済ませられるものではなく内部の派閥を理解しないと実態が掴めないだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.05.25 19:31:49
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