ごめんね、にゃあ君47
最終章発病 にゃあ君の様子がおかしくなったのは、6月に入ってすぐのことだった。ここ数日、呼吸が苦しそうだったが、特に今日はお腹の辺りが波を打ち、呼吸するたびに鼻がピクピクしている。いつもの病院へ連れて行くことにした。 口内炎の治療以来、時々インターフェロン入りの水歯磨きをもらいに行くことはあったが、にゃあ君はいつもお留守番。病院に行くのは久しぶりだ。病院へ行く時、いつもは抵抗するにゃあ君だが、今はそんな力もない。逃げ出す心配はなさそうだ。ストレスを軽減するため、バッグはやめて洗濯かごに座布団を敷き、その中ににゃあ君を入れた。今日は姉も一緒で心強い。ドアの開け閉めをやってくれるので、私はにゃあ君の心配さえしていればいい。 電話で予約をとってある。受付で名前を告げると、すぐに院長先生が出て来た。にゃあ君の症状を説明する。診察室に入るよう指示される。にゃあ君をいつもの診察台に載せて待っていると、若い女の先生が入って来た。衝撃の宣告をしたあの先生だ。先生はレントゲンを撮るために、にゃあ君の首にエリザベスカラーを素早く巻き付ける。一昔前にはやった襟巻きトカゲのような格好だ。にゃあ君は妙な物を巻きつけられ、おどおどしている。先生は「お預かりします。待合室でお待ちください。」とだけ言うと、にゃあ君を引き戸の向こうに連れ去った。奥はレントゲン室兼処置室になっているようだ。私は待合室に戻り、結果を待っていた。5分も経たないうちに姉が「今、にゃあ君の声がしなかった?」と言う。普段はのんびりしているが、こんな時には耳聡い。言われて耳をそばだてると、「ギャアー!」というすさまじい叫び声の後、ドタン!バタン!と激しくぶつかる音がする。音はレントゲン室から診察室へと移動している。 慌てて診察室のガラス窓から中を覗くと、にゃあ君が部屋の隅の荷物置き場のカートの下で震えているのが見えた。口の中が血で真っ赤だ。私は飛び込み、にゃあ君を抱き上げようと、カートに手をかける。「無理をしないほうが・・・・」先生の声が聞こえる。構わずカートをどかして屈み込み、にゃあ君を抱き上げた。にゃあ君は必死でしがみついてくる。「何があったんですか?」にゃあ君の後を追って診察室に入って来た女の先生に聞いてみる。「レントゲンを撮ろうとしたら・・・・」 それ以上聞かなくても察しはついた。苦しさからぐったりしていたにゃあ君だが、慣れない人に連れて行かれ、器械の前に据えられてパニックを起こしたのだ。落ち着かせるべく腕の中のにゃあ君に声を掛けるのだが、激しい息遣いは止まらない。呼吸が苦しい上にパニックを起こし、酸欠状態になってしまったようだ。 女の先生の向こうに院長先生の姿が見えた。レントゲン室から「こちらに来てください。」と呼ぶのだが、にゃあ君はすっかり怯えている。無理をしたらどうなるかわからない。「でも、にゃあ君がこんなに怯えて・・・・」ためらっている私に院長先生の一声。「そんなこと言ってる場合じゃないですよ。今ここで死んでしまうかもしれませんよ!」 有無を言わさぬ一言だった。院長先生に言われるまま、処置室に入る。促されてにゃあ君を処置台の上に置く。興奮しているにゃあ君にすぐに手当てはできない。まずは酸素吸入から始まった。にゃあ君の鼻先へ管を持っていき、そこから酸素を送り込む。 その頃になってようやく大変な事態に直面していることがわかってきた。にゃあ君が死ぬかもしれない?今、ここで?泣きたい気持ちを抑えながら、にゃあ君の背中を優しく撫で続けた。 しばらくすると、にゃあ君の呼吸が少し落ち着いてきた。吸入を続けながら説明を受ける。レントゲン写真を見ると、肺に水が溜まって酸素が十分に送り込まれない状態になっているという。すぐに肺の水を抜くことになった。私の役目は酸素吸入の管を持ち、にゃあ君を落ち着かせることだ。「にゃあ君、にゃあ君。」 努めて穏やかな声を掛け、首の後ろを撫でてやった。その間、院長先生は注射器の準備をする。針は普通の注射針より太くて大きい。針が入りすぎないようにするためなのか、針先から数センチのところが蝶々のような形をしている。その先が数十センチ管になっていて、太い注射器に繋がれている。針がにゃあ君の体にぐいと差し込まれた。にゃあ君は騒がない。細い管の中を赤い水が吸い上げられていく。それが注射器へと吸い込まれ、みるみるうちに一杯になった。にゃあ君の肺にこんなにも血水が溜まっていたなんて。こんなになるまで放っておくなんて、なんて愚かな親だったのだろう。 結局、注射器2本半の水が、にゃあ君の肺から抜き取られた。最後に注射を1本打ってもらう。疲れきっているにゃあ君は注射を打たれたことさえ気がつかないようだった。「ごめんね、ごめんね、にゃあ君・・・・」 薬を受け取り、家路につく。にゃあ君は私の腕の中。かごはもう必要なかった。一命を取り留めたにゃあ君は呼吸が楽になり、落ち着いた様子だ。 部屋に戻って、にゃあ君を椅子の上にそっと下ろす。にゃあ君は跳び下り、ソファーの陰に隠れてしまった。覗いてみると、せっせとグルーミングをしている。気を落ち着かせているのか、病院の臭いを消しているのか。大変な一日だったに違いない。「にゃあ君、よく頑張ったね。」 それにしても、あとどれくらい生きられるのだろう。私たちにはどれだけの時間が残されているのだろう。ふと見ると、着ていたセーターの胸のあたりが真っ赤に染まっていた。