世の中では正月9連休などと騒いでいるが、もっとも休みの少ないであろう商売であるので、唯一人並みにある30日から3日までの4日間の正月休みがどう足掻いても最長の休みである。その4日のうちの1日はほぼ大掃除やら初詣に費やされる。若い時は、正月登山やら冬山に1〜2日くらいは費やしたが10年くらいは行っていないので、したがって実質丸3日間がここ20年間ぐらいの1年間でもっとも長い正月休みの実態である。この3日間に何を読むか、ということを考えるのが、暮れの楽しみである。
そして今年は、たまたま手に入った郷土誌「伊那」のバックナンバーから、1975年から1985年の正月号を読むことにした。なぜ正月号なのかといえば、この年代の「伊那」の正月号は正月ということもあって決まって民俗学関係の特集号が組まれているからだ。特に1976年には柳田国男の生誕100周年に当たる関係で柳田国男の特集号が組まれている。ご当地ならではの、細々した、ある意味マニアックな発見と、柳田と関係の深い人々の証言が掲載されていて興味深い。婚姻直後の明治33年2月の来訪は、農商務官として講演に訪れた飯田での記録は同年12月号の「伊那青年」に載っているが、まだ文学青年だった柳田の短歌が同じ雑誌に載っていることは、この時点では見逃されているようだ。向山雅重や北原謙司、池田寿一、水野都沚生、牧内武司などの谷の民俗学草創期の面々に混じって、今では忘れ去られた観のある宮沢三二、西尾実、大沢和夫、武田太郎(小林秀雄)らのリリカルな文章も懐かしい。
山下生六氏の「厩に馬頭骨を祀る風習」(1977)、新野の猪切智義氏が亡くなる前に書いた483戸中わずかに1戸に残る「便所の年取り」(1982年)もそうだが、以前はどこの家でもあったとして、採取の遅きに失した感を悔いている。また「上村の民俗庫」(1982年)の山口儀高氏のように独力でその保存/基地づくりに乗り出す試みを続けた方もいたが、そのほとんどが故人になってしまい、その嘆きを引き取る先がないのは、怠惰というしかあるまい。
所詮は、大方の人にとって、彼らの問題意識は彼らが感じるように大切なものではないのだろう、「人はパンのみで生きるにあらず」というが、まず目先の食糧が大切なのだ。だから、口では大切なもの、貴重な活動といいながら、一方で、物好き、趣味の世界で片付けられ、理解も援助も長続きしないのだろう。だから、何年経っても、同じ嘆きが消えることはない。
しかし、その嘆きがある、あった、ということが、たとえば郷土誌「伊那」に記録されることによって、後に続く「物好き」たちにとって、同じ思いの人々がいたとして意を強くすることは確かである。決して民俗学に限ったことではない。「南信州地域資料センター」の、明治以降第二次大戦後までの地域発の印刷物を収集する活動も5年目を迎え、一般社団法人から公益社団法人に認証された。「物好き」たちの思いを、引き継ぐ活動でもあるのだと、改めて思った次第。