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テーマ:政治について(19783)
カテゴリ:政治関連
だから現場にもっと権限を与えてとか、政治主導なんて掛け声だけだとか、上がダメでも下がデキるから日本社会はもってるんだ、なんて声が聞こえてきそうなニュースがありました。
・“海水の注入 継続していた” 現場の判断としてはおそらく間違っていなかったでしょう。その後の状況展開からも考えて、現場としては最善の、そして唯一の選択肢であったかも知れません。 しかしこの判断は、大きな問題をいくつも孕んでいる事を見落としてはいけません。 その中で最も重要な点は、一現場責任者の判断が国全体の最高責任者の判断より優先されたという、結果論だけでは語れないし語るべきでないリスクです。 日本は民主主義国家です。その最高責任者である総理の判断を、一現場責任者が不履行した。しかもどうでも良い判断ではなく、原発の運転という一大事に関わる致命的に重要な判断です。 今回は結果として、おそらくは正解だった。 しかしもしも事態が悪化するような結果につながっていた場合、一現場責任者が自殺すれば済むような話ではありません。 しかも仕組み的なリスクは、物事が成功した(失敗しなかった)場合こそ、看過され、そのリスクを増していきます。 太平洋戦争前の日中戦争に突入していった時の教訓を忘れてはいけません。 現場の判断がどうして正しいのか、国の最高責任者が判断できないという現状そのものも大きなリスクなのですが、その判断が国としての行動に反映されない事以上のリスク(危険性)が、民主主義国家として有り得るでしょうか? 政治主導を掛け声だけで終わらせない為には、政治の運営を担う人々が、非常に高度な専門性を習得し、日々更新されていくその専門性を維持していく必要がありますが、それは果たして可能でしょうか? 考えてみて下さい。百年に一度という金融危機と、千年に一度という震災で引き起こされた原発危機と、その双方の専門性に完全に対応できる一個人が、地球上に何人いるでしょうか? ほぼ、いないと言い切れます。 専門家をそのまま顧問などとして官僚組織に取り込まない限り、通常の官僚ですら無理でしょう。専門家は、誰にでも出来ない事が出来るからこそ、専門家(プロフェッショナル)足り得るのですから。 ましてや、たかが選挙で選ばれただけの非専門家に、専門家と同程度の知識と判断能力を求める事は、果たして現実的でしょうか? 全く、非現実的と断言できます。 そしてそれこそが、民主主義政体の限界でもあり、多数決主義の限界でもあるのです。多数が支持した意見が正しいなんて事は、完全に電源を失った原発の処理一つ取っても、有り得ない事は明白です。 どのくらい日本国民の原発という存在に対するリスク管理意識と知識が低かったかという事実は、例えば火災を起こしている原発の消火に、何の特別な装備を持たない地元の消防署に依頼したり、畑違いの機動隊の放水車を持ち出してきたりした点などからも明らかになりました。 そんな社会に安穏と生活していたんだと、私はその時私自身に対して戦慄しました。 つまり、選挙する側もされる側も、その程度でしかないのです。世界第二位の経済大国で在り続けていた、世界で最もロボット技術などが進んでいると思われていた、この日本ですら、とんだ醜態を晒しました。というか晒し続けています。 全知全能の存在は、宗教の信仰上にしか存在しません。 つまり、全てを知る事も、全てのリスクに備える事も不可能なのです。 全ての事物に精通し、全ての判断を結果的に正しく行える存在もまた、いないのです。 だから、いる筈もない存在を求めて、不要不毛な議論を繰り返す愚は避けましょう。 鳩山から菅へと続いている民主党政権を、私は好評価するつもりはありません。しかし政権交代そのものを評価する向きは、当時社会に溢れていました。交代できる政体の仕組みを持つ事そのもののリスクは、交代が想定されていない政体の仕組みを持つ事のリスクより低いと、過去の歴史から日本の社会が判断した故でしょう。 誰でもが何でもの専門家には、なれないのです。 私の職場で、誰でもその作業が出来る手順書を作れと言われる事があります。でも、それがどれだけ矛盾した要求か、世の中にコールセンターが乱立する状況が物語っています。 無能な上司を、有能な作業者が支えれば良いという話ではありません。 ある事には有能かも知れない作業者も、別な事に対してはやはり無能かも知れないのですから。 そして民主主義は、致命的な程に、適材適所を目的としたりそれを実現する仕組みではありません。より多く票を集める能力が、高度な金融経済や原子力発電の仕組みなどへの理解とそれぞれの専門家と同等な程に両立する事など、ほぼ有り得ません。(特定個人名で思い浮かぶ人はいたりもしますが、極限定された例外であり、政体全般のリスクを特定個人だけでカバーできる筈もありません) では、適材適所を実現すれば、必要な時に必要な判断材料が提供される体制が構築できるかというと、これが最大の難関だったりします。 私がその業界の端っこにいる情報システム関連も、やはり一つの専門畑であり、ITと一くくりにされたりもしますが、メールやファイアウォールなどを挙げるだけでも全く異なった専門職です。 で、そんな細分化していく情報システムを管理しきれなくなった企業がどうしたかというと、必要なシステムを、所要を充足できる外部ベンダー(専門企業)に委託するという方式です。 これなら、各専門家を内部に全て抱え込む必要性とコストから解放される!、ともてはやされたりしているのですが、これも酷い現状をもたらしています。 官僚に任せとけばいいと政治を丸投げしてたのと同じ次元と言うのですかね。 外部ベンダーに委託するだけの社員達がいるとします。しかし彼らは、自分達では出来ないから外部に委託しているのです。その完全な依存体制は、内部の人達が外部の人達が何をやっているのか、例え報告されていてもその内容が理解できないという事態を招くのです。 もっと言うなら、虚偽の報告をされても、最終的に致命的な事態が発覚するまで、その真偽の判断がつかなくなるのです。 ね? 金融でも原子力発電でも他の社会的場面でも、そんな話を聞いた事がありませんか? 日本人の誰が班目委員長を笑えるのかというと、そんなに多くいないでしょうね。笑われていた理由も笑われなくなった理由も明らかでないし、明らかになってもそれが本当かどうか判断できる材料が社会に提供されていないし、そんな社会体制にもなっていないという、本当に笑えない話なのですから・・・。 まとめると、 ・誰も、全ての専門家にはなれない ・人任せにすると、判断する能力は失われていく その対処策としては、この事実から取り組み始めるしかありません。 ・人は当事者にならない限り、学ばない 民意を上げるという言葉は具体性を欠きます。 具体的に民意を上げる策としては、誰にでも当事者になる機会を与え、なるべく多くの人に当事者意識を持たせ、学習させていく事しか有り得ません。 抽選での裁判員制度ならぬ、議員制度です。 それを全議席とは云わないまでも、少なくとも二院制なら片方、地方議会なら半数程度を、抽選議員で埋めるようにするのです。 そうして初めて、「政治家が悪い」という台詞の登場機会が減っていく事でしょう。 少なくとも、鳩山や菅などを筆頭に、当選回数は何の品質保証にもならないという事実を私達はこの数年で思い知った筈です。 それが自分達の生命などに直結してくる事も含めて。 人は自分に出来ない事でも他人には求めるものです。 それがどんな結末をもたらすのかを、私達はもう少し真剣に見直していくべき時が来ていると思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.05.27 00:48:14
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