安楽死制度は無理がある
【「生きにくいので死にます」→「生きにくかったら死ね」】
安楽死制度を望むひとって、「自分が苦しくなったら利用できる制度があれば良い」という考えだと思う。
しかし、そこからどうしても、「苦しんでるのでラクにしてあげたい」「苦しんでるのでラクにしてあげてください」な、他者への安楽死制度利用へと進みかねない。
やはり、懸念されるのは「生きてる価値がないから処分」というところだ。
他者への要求ばかりで、我儘で、迷惑ばかりかける車椅子女性に対して、「そんなに生きにくかったら安楽死しなよ」という言葉が投げつけられる状況というのは、安易に想像できる。身体障碍者,心身障碍者,LGBTなど、現行の社会制度で生きにくいひとたちに対して、安易に「生きにくいなら安楽死制度を利用したら良いんじゃない?」という言葉が軽々しく投げつけられるだろう。
安楽死制度ができてしまえば、「生命を好き勝手に自由にできる」ような意識が生まれてしまう。
「生きる権利」という言葉が、「生きる価値」という言葉に置き換わり、「社会貢献度」「生産性」といった言葉で生きる価値を判断するようになれば、そこは非人道的社会だ。
【「友よ、私の仕事は終わった。なぜ待つのか?(To my Friends, My work is done. Why wait?)」】
また、死は現在の苦痛から逃れるためだけに選択されるのではない。
まだ未確定の未来への不安から死を選ぶ場合もある。それは他者に理解されないものだ。
何年も何十年も自死念慮と闘い続けた挙句に、自死する場合もある。
幸福と自死ということを考えると、いつもコダック創業者であるジョージ・イーストマンを思い浮かべる。彼の時代に安楽死制度があれば、彼は安楽死を選び幸福だったのだろうか。
【死と抗う意志ー延命治療】
死と向き合い、抗い、生きる意志。
末期状態で、死を受け容れる環境。
意志と無関係に生き永らえる状況。
安楽死が、暴力とならないために、議論を尽くす必要がある。