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2019.10.04
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カテゴリ:ルマン24h
​ ​昨年、スパークから商品発売アナウンスがあった時に決めていたこのタイトル。
そもそも一昨年にトゥルースケール(TSM)からスピード8の発売アナウンスがあって、
イクソからのグレードアップのため予約しといたんで、それと合わせてネタにすりゃバッチシじゃん!
とか思ってたんだが、そのTSM、2年経っても一向に動きが見えない。
アマゾンなんかを見ると今月末なんて書いてあるが、一方ヨドバシは発売日延期未定になってるし。
ヘタすりゃこのままお蔵入りか?ってな塩梅なんで、共倒れにならないようにイクソを引っ張り出して。



 ベントレーのハチとロク。 
 なんかね、クラシックカーってゆーと華奢なクルマってゆーイメージが勝手にあるもんだから、
これホンマに同一スケールかいな?って思っちゃう。
数値的にみれば、例えばホイールベースはスピード8のほうが613ミリ(!)も短いんだから、
この絵面で合ってるんだが、なんか不思議な感じ(笑)


スパーク1/43 ベントレー・スピードシックス「オールド・ナンバー・ワン」 "1930年ルマン24h 優勝"
#4 ウルフ・バーナート / グレン・キドストン

 まー懐古趣味も黄金の50年代から一足飛びに戦前までいっちゃったよ。
 その頃ルマンだって創世期、まだたったの8回目だもんね。
そんな時代、ルマン5勝で勝率6割2分5厘の栄華を極めたのがベントレー。
1930年は27年から続く4連勝の最後の年にあたる。
(その次のルマン制覇は73年後のスピード8でってわけで、先のツーショット写真は
73年の時を経た優勝車の邂逅ってことになる)

 しかしね、あんまり古いから、掘ってもなかなかネタが出てこないんだわ(笑)
 すぐにわかるのが、この車両は29年も優勝したクルマそのもので、要するに後のガルフGT40や
ニューマンポルシェなんかと同様に、同一車種で連覇した奇跡の一台の始まり、とゆーわけ。
だから、そーゆー意味も込めて、このクルマを「オールド・ナンバー・ワン」と呼ぶんだね。
ってなことくらい。
 とゆーのもベントレー・スピードシックスってえと、ルマン制覇よりもっと有名な濃ゆいエピソードが
何個もあるんで、そっちが注目されちゃって印象薄かったんちゃう?
まあフランスでイギリス車が毎度毎度勝ってるんで、フランスもトップ記事は「ベントレー優勝」
じゃなくて「ブガッティのフランス婦人コンビ、7位入賞す!」だったらしいし。

 で、そのスピードシックスの有名なエピがどんなんか?ってえと。
1.試作車
 大成功したベントレー・3リットルの後継開発に4.5リッターエンジンをと考えて、1924年に
作った試作車「サン(SUN)」
そのロードテストを、リヨンで開催されるフランスGPを見に行く道程で代用しようと考えた、
時の社長ウォルター・オーウェン・ベントレー。
リヨンからの帰り道で、やっぱり物見遊山をロードテストにあてたロールスロイスの試作車(のちの
ファントムI)と三叉路で行き会った。
相手ドライバーの目を見たとたん「コイツ、やる気だな」と自然発生的にルート・ナシオナル(国道)を
舞台とした即興レースに発展(笑)
レースは、ロールスのドライバーが風にあおられて飛んだ帽子を拾おうと停車するまで続いたけれど、
わが社の車こそ世界最高と思ってた「サン」がロールスに対して十分なアドバンテージがないことを
不満に思ったW.O.ベントレーが作ったのが6.5ℓ直6エンジンとそれを搭載するシャシー。
これがスピードシックスのベース車両。
ベントレー・6 1/2リットルとして販売し、スピードシックスはその高性能バージョンの位置づけ。

2.ブルートレイン・レース
 カンヌのカールトンホテルでのディナーの席上、ベントレー会長ウルフ・バーナートは
「ローバーは、自分とこのライトシックスがブルートレインよりも速い、とか言ってるけどさぁ、
言ってるだけじゃあねえ・・・何ならやってみようじゃあないの」と自分のスピードシックスで
(勝手に)ブルートレインと競争することにした。
「ブルートレインがカレー駅に着く前に、ロンドンのクラブでお茶してたら100ポンドもらうよ」
 翌日(30年3月13日)午後5時45分、ブルートレインがカレーに向けて出発すると、
バーナートとアマゴルファーの相棒デイル・ボーンは、バーで一杯ひっかける余裕を見せてから
ロンドンに向けて出発した。
 途中、リヨンを過ぎる頃から雨が降り出し、オーセールではガソリンスタンドを探してウロチョロ、
フランス中央高地では濃霧と戦い、パリを過ぎたところでタイヤバースト等トラブルに見舞われながらも
ブローニュに午前10時半に到着。
イングランドに向けてイギリス海峡定期フェリーに乗り込んで、午後3時20分にロンドンはセント
ジェームス通りの「ザ・コンサバティブ・クラブ」に到着。
ブルートレインがカレー駅に到着する4分前の出来事だった。
この出来事からスピードシックスは「ブルートレイン・ベントレー」として有名になった。
 フランス当局は、この不認可のレースに怒り、バーナートにルマンの賞金よりも高額な罰金を科して、
さらに公序良俗に反する破廉恥とスピードシックスを30年のパリ・サロンから締め出した。

3.ブルーチレイン・ベントレー論争 
 ブルートレインに勝利したことを記念して、バーナートが5月に入手したスピードシックスに
「ブルートレイン・スペシャル」と命名した。
 当時、車のボディーはそれ専門のコーチビルダーが作って、ベントレー自体はシャシーにエンジンや
ミッション、サスペンション、タイヤなどを組み立てたランニング・シャシーを販売してた。
だから十把一絡げにスピードシックスと言っても、実は外身は千差万別だった。
実際にブルートレインと競ったスピードシックスはヘンリー・ジャーヴィス・ミュリナー製のボディが
架装されていて、一方「ブルートレイン・スペシャル」はガーニー・ナッツィン製だ。
(ちなみに、ルマンを制覇したオールド・ナンバー・ワンはバンデン・プラ製ボディだ)
けれどもミュリナーとナッツインのぱっと見がよく似てたので(違いはスペアタイヤの数くらい)
のちのち両者を混同しちゃう問題が発生した。
今でも、海外サイトの画像なんかみると間違った表記のキャプションが多々あるよ。

 ま、ルマンで連勝したゆーよりも圧倒的に有名で面白いエピソードではある。
といっても、ルマンのネタなんで、クルマになにもなきゃレース展開でも追うしかない。
 
 1930年の参加車両はたったの17台で大会史上最少(今でも)
ドイツ車(メルセデス・ベンツSSK)が初めて参加。
女性ドライバーが初めて参加。

 レースは、ルドルフ・カラツィオラ/クリスチャン・ヴェルナー組のメルセデスSSKが
ポールスタートから逃げをうって、2周目に最初のファステストを出すと、スーパーチャージャーを
オフにして走行を続けた。
追うはセミ・ワークスのブロワーベントレーで、こちらはスーパーチャージャー全開。
ユノディエールで追いついてミュルサンヌでオーバーテイクを試みるも、その都度タイヤバーストで
果たせず、そのまま夜間走行へ。
陽が落ちてからもメルセデスとベントレー軍はトップ争いを繰り広げるが、午前1時半にメルセデスの
ダイナモのワイヤーが切れてバッテリーが上がってピットアウト出来ずリタイアして集結。
ベントレーの1-2-3-5走行となり、表彰台独占が期待されたが、夜が明けた昼頃、セミワークスの
ブロワーベントレー2台が相次いでリタイア(コンロッド破損)したものの、2台のワークス・スピード
シックスはそのまま走り切って1-2フィニッシュ。
 3-4位には、トップから17周遅れでタルボ90が入ったが、性能指数賞については
わずか0.004差(計算上は実走1ラップの差)でタルボがかすめ取って行った。

 ウルフ・バーナートは、1928年から3連勝。
この記録をもってレース活動から引退を表明、本業の会社経営に専念。
しかし折からの大恐慌で、会社自体が需要激減のダメージを受けて、レースどころじゃなくなる。
結果、ワークスチームは解散。
さらに翌31年、バーナートは不渡りを出して、ベントレーはロールスロイスに売却された。
一方、バーナートの相棒キドストンもレースを辞し、翌年、飛行機で英国-南アフリカ間の時間記録に
挑戦し、見事6日半の記録を打ち立てた。
その帰途、レコードブレークに使ったロッキードじゃなくて、現地で借りたデ・ハビランドが
ドラケンスバーグ山脈を越えるころ、悪天候により空中分解して死亡、享年32歳。
 セミワークスチームもまた、「高潔なる」ドロシー・パゲット嬢から財政支援を切られて解散。
次にワークスベントレーがルマンに姿を現すのは2001年、フォルクスワーゲン傘下に入ってから。
そして2年後の2003年に73年振りの総合優勝。 

とゆースピードシックス一代記、これにて一巻のオシマイ(笑)






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Last updated  2021.07.29 18:08:33
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