我々は、書籍、新聞、テレビ(地上波・BS)、雑誌、インターネット、SNSなどさまざまな媒体から流される「情報」に囲まれている。
インターネット、SNSの発達によって、これまで普通の人々は、単に情報の受信者にすぎなかったものが、お手軽に発信者になることができるようになった。(おかげでこのような拙ブログも配信できる。)
そのことは、「発信者」としてどれほど偏向していようとその特権の地位にいられた者の地位を危うくしたり、独裁者による情報の制限をかいくぐるというメリットももたらしているが、その分、真偽不明なオカルト的な情報が溢れるというデメリットもまたもたらしている。
何が信用できて、何が信用できないのか。その境界線がモザイク模様になってしまい「正しい情報」を判断するのが困難な時代を迎えている。インターネットの特徴として、ポジティヴな情報を共有する以上にネガティヴな情報の共有が盛んにおこなわれる。よってかつてないほど「不信の連鎖」が起こりやすくなっている。
人は自分の考えと同質なもの、あるいは自らの考えを補強したり裏付ける情報を集める傾向がある
このことは、善でも悪でもなく「心地よい状態に自分を置きたい」という本能に属するものだろう。
そして厄介なことに
「人は煽動的な投稿ほど共有したくなる」(マイク・コールフィード氏)
「フェイク・ニュースも自分の支持を表明する手段となった。目を引く見出しがあれば安易に共有する」(エマソン大学ポール・ミハイリディアス教授(メディアリテラシー)
このような傾向がある。
アクセス数、検索エンジンによる順位、「いいね」の数は、「正しい情報」を意味するものではないのである。
真面目なニュースよりインパクトだけが強いものや、感情をかき乱す話題ほどアクセス数が伸びる。そしてそのようにインターネットだけで盛り上がっているものが、既存メディアとりわけテレビで伝えられると真偽のほども分からないのに、爆発的に拡散され、あたかも真実、正しいことのように伝わっていく。
悪貨は良貨を駆逐していく
わが国でも発信者も真偽のほども分からない「保育園落ちた。日本死ね」などという無知な、非常識な、非倫理的な投稿が馬鹿な国会議員の手によって国会でも取り上げられる事態となったことは記憶に残っておられる方も少なくないだろう。
これは、これまでもそうであったが「正しい情報が必ず勝つ」などというのは夢のまた夢になってしまっていることでもある。シナなどが、「百か所で百回語れば、嘘もまた本当になる」など情報戦を繰り返してきたが、このことが、いとも簡単に行われる環境になってしまっているのである。
これでは、「真面目に発信しているもの」「真実を追い求めようとする」人々にとって、これまでよりも環境が悪化している。と言えるだろう。
選挙演説などでもそうだが、まず「と思います。」などといった表現では、有権者の足を止めることはよほどの有名人でもない限り困難である。そのような場合用いられるのが「断定する」という手法である。これは各種のマニュアル本も同じである。売れているマニュアル本は必ず断定口調となっている。
これらの手法はこれまでも「通販」などでも用いられている。
私は、一つの目安として、「通販に嵌る」人々というのは著しく「メディア・リテラシー」が脆弱であるといってもよいものと思う。
このような、インターネットやSNS上で日々拡大再生産されていく中で「自己責任」として、メディア・リテラシーを強化していく必要がある。
入手する情報が極端に偏るとそこには、フェイクやプロパガンダにすぎないものも多く混じっていく。
これらに踊らされると「自らの意見と同質のものに対する批判精神」は衰えていき、やがて批判や異見に耳を全く傾けようとしなくなる。
人は自らの対する批判など耳を傾けたくはない。当たり前のことである。(しかし私は、自ら発信者となる以上、批判は覚悟して行うべきものと思う。)
ブログなどで異なる意見のコメントを拒否するようなものは(まあ政治家や著名人であれば百歩譲って可とするが)「自己満足の世界に閉じこもりたいだけ」と判断して差支えなかろう。
過去にクレーマーに悩まされた経験がある人はそうしたい気持ちもわかるが。。。
しかしそのような人の場合、不思議なことに敵とみなす者に対する批判は、口汚く、まあののしるといったものになっていたりする。他人に対しては攻撃性が強いものとなるが、自らへの批判は受け付けない。などというのは随分と勝手な言い分だと思う。
「憎悪と偏見」だけが異常に膨れ上がり、対立と分断が一層深まっていく。異見には耳を貸さないのだから、この対立を解消する術さえ持たないのである。
だからこそ、我々は現在の環境に適した「メディア・リテラシー」を身につけなければならないであろう。
私が考えるところでは
・「タダより高いものはない」
やはり有用な情報にはそれなりの金がかかっている以上適価があるということである。
価値のある情報ほど価格は高い。
「情報は無料」ということが定着していけば、正しい情報を伝えるためのコストが払えなくなる。
つまりは自らが自らの首を絞めることになる。
勿論政治家のパーティーや講演会などといったものは「寄付」としての色合いが強く、そこで語られていることには。払ったコストに見合うものなど滅多にない。
・情報源に遡っていく
多くの場合、語ったことなどでも、一部を引用するだけのものfが多く、そこにはかなりの角度が付いている。それを情報源に遡ることによって、弊害は軽減される。
・自らの考え方と正反対の意見にも耳を傾ける。あるいは相手がどのような言い分で、何を根拠に(多くの場合根拠がなく、単なる印象論によるものが少なくないが)語っているのかを知ることである。これは国際問題などの場合、別の当事国、第三国の意見にも目を通しておくことが求められる。
現状我が国の新聞で「外報面」「国際面」などで見られる記事は、「米国の目」あるいは「シナの目」を通したものにすぎないことが多い。これは配信元を見ればかなりの程度判断できるようになる。
我々は、「米国の目」あるいは「シナの目」を通して国際社会を見ているということになってしまう。当然そこには彼らなりの意図がある。
情報源はどこなのか。という目で新聞を読むと、まあ話半分にしておけばよいのかどうか、見極めがつくようになるだろう。
・「断定口調」「短いフレーズ」には要注意
「断定」あるいは「短くする」ためには、周囲にある様々な現象などを切り捨てなければならない。実はこの切り捨てられた部分にかなり重要なものがあることが多い。
私のブログもそうだが「自明である」などと書かれているものは、その過程が省略されているということになる。つまりはブラックボックスから答えを導き出したものが少なくない。
これは「陰謀説」「謀略説」などを説く場合にかなり多くみられる。
何度も書いているが、「陰謀説」「謀略説」などというものは、自らの好きな回答を得られる便利なブラック僕臼にすぎない。
インテリジェンスを重視する人に多いのだが、物事は全て謀略によってなされている。などと考えがちである。しかし多くの場合、誤解や、パーセプションギャップなど陰謀はあるかもしれないが、結果としてその意図と違った方向に進んでしまうことは世の中多くある。
自らがそう考えるから、相手もそう考えるだろう。という「ミラーイメージ」だが、それは単なる「思い込み」というものであろう。
・「常識」を判断材料とする
悪意に満ち満ちたものなどは、何度か読み返してみれば、「不思議な部分」「わからない部分」がかなりある。
つまりは一読しただけでは感じなかった「おかしな部分」というものが読み返すうちに出てくる。
それは、やはり常識とかけ離れているからであろう。
・原因と結果、目的と手段を考える。
ともすれば手段の目的化といったものが多い。また原因と結果を取り違えたものも少なくない。
「手段」なのか「目的」なのか
「原因」なのか「結果」なのかを考えることである。
小池都知事が「情報公開」を目的としたようなことを言っているが、「情報公開」など手段でしかない。彼女の話に「目的」はまったく見えてこない。党いうことは目的がない。つまりは目的地のない航海をしているということである。
このようなものはいずれ、破綻するのは目に見えている。
総合的に見れば、ようは汗をかけ、金を出せ、自ら考えろ
ということである。
といって無料のツールを使って言っているのだから、その信頼性を自ら疑わしいものにしているともいえる。
まあ私のブログは、皆様方に考えるための材料を提供しているつもりである。
文責 上田 和哉