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カテゴリ:想い
世界的に見ても国というものは、紡ぐ歴史の中で戦争のない平和であった期間の方が少ない。
我が国においても、第二次世界大戦終結後から今日までの平和というものは、たかだか七十年にも満たないのです。 出口の見えない紛争地帯も、保って一世代限りの平和も、人類はなんともか細い善の中に生きていると思わせます。 一個人の利己主義と我欲は、国家においても、権力集中のなかでまま増幅され、あらぬ方向へ流れていきます。 家庭においても様々な組織においても国家においても、その運営はそれらを司る個人の心の資質に因るところが大。 自己利のために、あわよくば他人の芝生をも侵害して我のものにする。 市場経済における企業も個人レベルにおいても、過ぎた我欲は、法に抵触するかしないかの線上を行くことがしばしば見受けられます。 バブル崩壊もまた、多くの人が我を忘れ、地につかぬ利得に夢中になった結果です。 国家間においても、提起された問題は冷静に精査されるべきでしょうが、過ぎた我欲は一歩下がって立ち位置を変えてみることをしません。 善も悪の心も持ったのが人間ですが、残念ながら、マザーテレサやガンジーの様に特別の魂は別として、広く一般には、自分の生活が担保されてはじめて、理性を保ち他人のことまでを考える心の余裕を持ちます。 社会形成において決して独りでは成り立たない個人は、自らを確立させ、自他共栄を図りながら、成長と希望のある平和な世の中に生きることが理想でしょう。 けれども、日常生活における小さな領域から国家間まで、利害は時に激しく蠢くのです。 良いところも悪いところも、世を動かすエネルギーは個人の欲求から発せられるものであり、時代の成長と変化の歴史は、その時折のそれら強いエネルギーを持ったリーダー達によって牽引され、刻まれてきたのも事実なのです。 そもそも穏やかな心を持った多くの民は、他人に対して 無理難題、力任せの傍若無人な振る舞いには至らない。 どの国においても、時代を生きて来た市井の多くの人達は、いたって平和に生きる人々であるでしょう。 歴史に名を残すものが偉いとは限らない。 片田舎に生きる人の笑顔に溢れるばかりの幸せを感じるように、高貴な精神を持った人というのは、案外その辺にいる目だたぬ人なのです。 強引で暴力的な光景に、善なる心が揺れることなく、違和感を抱かない人間と国家というのはどうだろう。 これらを鑑みても、今更ながら、地位も肩書も育ちも財産の多寡も学歴も、国の権力者も、人の心の資質とは正比例しないことは明白なこととなります。 良心に照らすことのできないそれらは、世の役に立つことはないのです。 宗教においても、暴力的で排他的なものは真理から遠ざかるのです。 世界における善なる人々は、争いなく他人の垣根を壊すこともなく、心穏やかに今日という日を慎ましく生きています。 善なる良心と十分な想像力をもってすれば、悠久の人類史に立って、数々の反省や人間の愚かさも愛も、過去から現在を貫いて容易く是々非々の判断をできるでしょう。 あるいは、遠く離れた宇宙空間からこの地球を見下ろしてみればいい。 なんともちっぽけな、個人と国家が見えてくる。 原発にしてもしかり。 解決を見ないまま、三、四十年もすれば現在の責任者などいなくなる。 専門的な人間も育てられないまま、この少子化の中で、目処のつかない大きな負担をしいられるのは何の責任もない子達。 それでも、信じたいのは、騒々しさの陰に隠れて今日も笑顔で善に生きる、真理に近い世の人達。 ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012年09月16日 20時33分47秒
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