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カテゴリ:想い
暴動を見ても政治を見ても、人間は、その誕生から21世紀の現代に至るまで、文明の進歩に比して、その精神は何ら発展を見ないままのようです。
その日一日を、家族を守って食うに足りた紀元前、文明の祖に生きた人間とどう違うのでしょう。 21世紀を経て、人の心は尚この有様です。 昨今の状況をみて、私は時々「ファミコン、ゲームが悪い」と、半分冗談、半分本気でいうことがあります。 進歩と物質の氾濫は、精神を軽々なものにしてきたようにも思えるのです。 テレビの液晶画面は綺麗です。 しかしプラズマ方式の方が質感と深みがあります。 それよりもあるのが実はブラウン管なのです。 まだ言えば、鮮やかで綺麗だけれど平面的に映る液晶より心に残るのは、皆が驚いた白黒画面のテレビの登場でした。 見る側は、白黒画面の中に色を読み取ることができたのです。 数々の便利性とともに、驚きと感動を忘れた人間の心は益々平面的になり、心のひだを形成されることなく子は大人に成長し、人としての奥行き感を遠ざけてきたようにも感じます。 人生の全てを我に終始する。 生まれた時から平坦を歩き、誤った個人主義が蔓延する世の中。 成人になってもゲームに夢中な世の中は、仮装と現実の狭間で自ら希望を見失い、大局観に立つこともできない。 文明の発展と裏腹に、人類の精神はなんともお粗末です。 まるでハムスターの回し車の様な人間社会。 世界の権力者はもとより人は、一歩喧騒の外に離れ、この人間というものを見つめてみようではありませんか。 なんと、木戸孝允(桂小五郎)幼年期七、八歳頃の書です。 これは少年期十一歳の書。素晴しいですね。 朱書きで「天晴見事見事(あっぱれみごとみごと)」と評価されています。 故郷の先輩達に、あっぱれ! 物質的便利さのない時代。 しかし、そこに生きる人には、大人も子も「凛」とした部分がありました。 大切なのは、世を想い人を想い、大局観に立った気高き精神か。 ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012年09月18日 06時14分48秒
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